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大山康晴十五世名人「この頃から、私は中原さんと指すと、しんから疲れてしまうようになったし、勝率もぐんと悪くなった」

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近代将棋1988年6月号、大山康晴十五世名人の「将棋一筋五十年」より。

 昭和47年の第31期名人戦。これは毎年行われている名人戦の中でも、私にとって忘れ難いものがある。

 この年の七番勝負で私は敗れ、名人位のタイトルは挑戦者の中原さんに移った。

 同じ年。私と中原さんは、そのほかのタイトル戦でも顔を合わせており、王位戦では私が勝ったが、十段戦では負かされている。

 この頃から、私は中原さんと指すと、しんから疲れてしまうようになったし、勝率もぐんと悪くなった。

 その原因は、精神的なもの、肉体的なものといろいろあるだろうが、根本は、どことなく両者の棋風の中に、似通った部分があったためかもしれない。

 この間の事情を、内藤國雄九段が当時、こんな風に記述している。

「自然流という言葉は、原田泰夫九段が名付けた『中原自然流』から急に中原さんに関して用いられだしたが、実はその前に先輩の『大山自然流』が存在していたのである。したがって、今期の名人戦は、自然流という不動のバックボーンを持った二つの棋風の争いであると見ることができる」

(以下略)

——–

棋風の中に似通った部分がある相手と対局をすると疲れる、というのは、言われてみるとわかるような感じがする。

私は石田流が大好きだが、相手も石田流をやってくると(▲7六歩△3四歩▲7五歩△3五歩のような展開)、急に気持ちが憂鬱になってくる。

棋風という観点ではないが、相振り飛車も気が重い。

似たようなことをやってくる相手だと、疲れるのは確かだ。

やはり、相手が重厚な居飛車党あるいは紳士的な居飛車党である場合は、指していて楽しくなる(中盤までの話だが)。

——–

もっとも、大山十五世名人が書いていることはもっと奥深いことで、プロにしか実感できない世界での話だ。

しかし、よくよく考えてみると、大山十五世名人が相手であれば、自分の棋風が大山十五世名人に似ていようが似ていまいが、疲れると思う。

そのような大山十五世名人を疲れさせるのだから、中原誠十六世名人もすごい。

「自然流」というのが、言葉から受ける印象とは違って非常に強い毒性を持った棋風ということになるのだろう。

 


佐藤康光棋聖(当時)「森内さんに聞いてみたらどうですか」

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将棋世界2004年6月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第3回 森内の将棋は羽生のチェスで変わった」より。

「日本人じゃない」

「あの二人にはついていけません。顔が合えばポーンがどうしてナイトがどうしたとか話し込んでいる。私にはチェスの棋譜などまったく頭に入りませんが」

 自身もかなりのチェス好きであるはずの佐藤康光棋聖は、半ば呆れ顔でいう。

 本誌昨年3月号「棋士たちの真情」で佐藤棋聖が松本治人氏の取材に答えて、<羽生さんとはその思考方法が違うような気がします。結論は結局同じになるかもしれませんが、それにたどり着くプロセスがどうも違う。チェスをやってよくわかりました。>

 と語っているのが非常に気になっていた私は、棋聖に発言の真意を尋ねた。具体的な指し手の話になるのかと思ったら、棋聖が感嘆するのは、羽生善治名人のチェスに対する常人離れした「姿勢」だった。そして、それは森内俊之竜王にも共通しているという。

「あの二人を見ていると、日本人じゃないとさえ思うときがあります。美学や気合、流儀といった発想がなく、すべてが理詰め。それはまさにチェスの世界の考え方なんです。彼らに比べれば、自分は日本人だなあとつくづく思います」

 続く言葉が、今回の「種」である。

「森内さんに聞いてみたらどうですか。彼は羽生さんのチェスの棋譜を並べて、将棋に応用しているという話ですよ」

 本当なら、へぇ~どころではない。

―そうなんです。じつは羽生さんのビショップの動きを調べると、将棋で角をどう使ってくるか予想できるんです―

 な~んて話はもし森内竜王から聞けたらトリビアどころか大スクープだ。羽生名人から次々にタイトルを奪った理由がそこにあるとしたら―。

チェスって面白いの?

 だが大方の「将棋世界」の住人同様、私もチェスについてはルールくらいしか知らない。将棋倶楽部24のレーティングを一晩で250点以上下げた翌朝、チェス転向を決意して盤駒を衝動買いしたことはあったが、どうも熱が入らないのだ。

 やはり持ち駒が使えず、だんだん盤上が寂しくなることに抵抗がある。それにやたら引き分けが多いと聞くと、将棋より劣るゲームではないかとさえ思う。

「それは将棋をやってる人にありがちな誤解です。ぴょーん」

 と現れたのは私の勤務先の後輩、塩見亮である。最後のぴょーんは彼が熱狂するモーニング娘。のカゴちゃんの真似だ。ただのモーオタと思っていたこの男が、チェスの日本チャンピオンのタイトル保持者だと知ったときは本当に驚いた。

 小学生のときに将棋に熱中し、奨励会入りをめざしたが才能の限界を感じ断念。ついでに菊池桃子のファンもやめた。ところが大学に入ってチェスを覚えるやたちまち上達、学生チャンピオンになり、同時にアイドル熱も復活したという。

 そのモーオタが、チェス盤にけったいな局面をつくった。(d6に後手玉、d4に先手玉、d3に先手の歩)

「たとえば、これは先手の手番なら引き分け、後手の手番なら先手勝ちという結論が出ている局面なんです。駒が少なくなったら、こうした形にどう誘導するかを考えるのがエンディングというチェスの終盤戦です。将棋の終盤とは違うパズル的な面白さがあります」

 でもコンピュータが解明済みなんだろ。

「人間にはとても覚えきれませんよ。グランドマスター(将棋ならプロ級)でも間違えるほどです」

 引き分けが多いのもなあ。

「たしかにグランドマスター級の対戦は半分以上が引き分けになります。でも引き分けを狙うのも戦術の一つなんです。むしろ将棋が勝ちと負けしかない単純なゲームに思えてくるほどですよ」

 チェス界で実力の物差しとなる国際レーティングの世界一は現在、カスパロフ(ロシア)の2817。日本ベスト4は、①渡辺暁2365 ②羽生善治2339 ③ラモス・D2329 ④森内俊之2301

 である。チェスにも渡辺アキラという強い人がいるのだ。羽生名人は世界ランキングでは3940位となる。

「知識が通用しない力戦になると、羽生さん、森内さんの読みの力はさすがです」

 モーオタは2129で国内15位だが、この世界での存在感はかなりのものらしい。電話に出た森内竜王は、その名を聞いたとたん、一人のチェスファンとなって声を弾ませたのである。

「あ、塩見さんも一緒ですか?では、そちらまでうかがいます!」

おそるべし、「羽生のチェス」

 王将を奪取し二冠となった直後の竜王は、さあ何でも聞いてくれという表情だった。ビールが入り舌も滑らかだ。

「僕が8五飛戦法に抵抗なくついていくことができたのはチェスのおかげです。チェスの駒は飛び道具ばかりだから感覚が横歩取りに似てるんです」

 だが、チェスの将棋への応用についての具体的な話はこれだけだった。羽生名人のチェスの棋譜を解析して何か発見がなかったか、私とモーオタが手を変え品を変え聞き出そうとしても、

「いやー、それはないです」

 と竜王は微笑するのみ。そこに軍の機密を隠す様子はうかがえない。佐藤棋聖がくれたトリビアの種は、残念ながら花咲かなかった。

 しかし、竜王は羽生名人のチェスの話題を避けたのではない。われわれがスクープをあきらめかけたとき、むしろじつに饒舌に、羽生流のチェスがいかにおそるべきものかを語りはじめたのである。

「いちばん衝撃を受けたのは、郷田さんとの棋王戦を3勝1敗で防衛した(平成10年)その翌日に、百傑戦(国内のチェスの主要大会の一つ)に出場したことです。それだけでも驚くのに、なんと優勝してしまったんです。羽生さんにとって初めての大会出場だったのにですよ」

 羽生名人は、ジャック・ピノーさんにチェスの指導を受けていた。名人にとってピノーさん以外の人と指すことさえ、このときが初めてだった。だが名人は師匠のピノーさんと引き分け、日本一の渡辺暁さんに勝ってしまう。

「この大会のあと、渡辺さんは胃痛を起こして寝込んだそうです。ピノーさんもショックを受けていたようでした」

 竜王は、いつぞやの佐藤棋聖のような呆れ顔になっていた。

「羽生さんのチェスには、将棋以上に勝負への執着心を感じるんです。引き分けになりそうな勝負でも、状況や相手の力によっては踏み込んで勝ちにいく。

 しかし、ふつう初めて大会に出た人間が本気で優勝しようなんて思いますか?僕なら一瞬も考えませんよ」

 自分よりも羽生名人が優ると思う点として、竜王は意外なものを挙げた。

「体力が違うんです。チェスの大会は、長いものだと1日2局ずつ、4日間連続で戦うこともある。順位戦が4日続くようなものです(笑)。僕なんかフラフラになりますが、羽生さんは平気なんです」

 竜王の話を聞いてつくづく感じるのは、チェスという競技のタフさ、ドライさである。一局の勝負ではなく、トータルのポイントを争うため、棋譜の美しさなどへのこだわりが少ないという。ルールの範囲内ならば手段を選ばない面もあるようだ。たとえば「引き分け提案」も戦術の一つになる。勝負の途中で一方が引き分けを提案し、合意が成立すれば引き分けになるのだが、これを不利な局面でわざと使うのだ。当然拒否されるが、拒否したほうには「勝たなければ」というプレッシャーがかかることになる。

 国際大会ともなれば、こうした勝負を世界各国の初対面の相手と戦わねばならない。年中、ほぼ同じメンバーで戦い続ける将棋界とは大違いなのである。

「僕がチェスをやってる理由のひとつに相手を驚かせる楽しみがあるんですよ。国際大会では日本人はだいたいバカにされるんですが、やってみると僕が案外強いのに驚いて(笑)、こいつは何者だ、と」

 竜王が子供っぽく笑うのを見て、モーオタはいったものだ。

「いま将棋界で最強といわれる二人が、そろってチェスをやっていることに、何か意味がある気がするなあ……」

 さて、読者もそろそろじれてきたことだろう。大事なことを早く聞け、と。

変身のわけ

 では最近、対羽生戦で押しまくっている理由は、いったい何ですか?

 答えは、意外にあっさりと返ってきた。

「読み筋を減らしたんです」

 はあ?

「僕はいままで、相手と戦うのでなく将棋盤と戦っていた。変化をすべて読み尽くすまでは、次の手を指したくなかったんです。たとえ相手が読んでいるわけがない筋でも。だけど齢をとって、体力が続かなくなってきた。このままでは終わりたくなかったので……」

 またしても「体力」である。

「マラソンでいえば、1キロ3分を切るペースは続けられなくなったんです。レースに勝つためには、終盤に体力を温存すべきだと思った。やはり棋士になったからには最高記録を出したかったから」

 そしてやや自嘲気味にこう続けた。

「まあ、ある意味でいいかげんになったんです。でも、全部読んでいなくても、伸びのある手を指すほうが、相手が間違える確率は高くなるようです」

 チェスの影響で、内容より勝負重視になったということはありませんか。

「いえ、それはないですね。勝負重視とはいっても、賞金を争うチェスと違ってわれわれは新聞社に棋譜を買ってもらっているのですから、意味が違います」

 個人的に森内将棋の魅力は、一つでも穴があったら破綻する大胆な構想を、緻密な読みによって実現してしまうところにあると思っていた。丸山九段との名人戦第3局(2図)が典型的だと思う。

トリビア4
バラバラの陣形で飛車交換してもよし、という驚愕の構想。こんな将棋がどうして「鉄板流」だろう?

「鉄板流」などは、勝ちを確定するための手続きをいっているにすぎない。その大構想は、将棋盤を読み尽くせるほどの体力に支えられていたのだろう。

 だが、いま森内将棋は変わった。本人は否定したが、そこにチェスの、いや羽生善治のチェスの影響を見ることができるのではないだろうか。ある意味で将棋以上にハードな勝負を、自分が倒さねばならない相手は涼しい顔をして楽しんでいる。それをもっとも間近に見てきたことが、森内俊之の意識に変化をもたらした―。少々強引ではあるが、これを今回の報告とさせていただきたい。

「それにしても羽生さんはなぜ、あそこまでチェスに熱中するんだろう」

 モーオタはつぶやいた。それはいま、多くの将棋ファンが抱く疑問だろう。

 次回、羽生名人とモーオタが激突する。

——–

塩見亮さんは講談社で絵本や児童書の編集を担当、また今年のチェス全日本クラブ選手権では所属する麻布OBチームで全勝優勝、個人でも2位を獲得している。

——–

モーニング娘。が結成されたのが1997年。塩見さんは1975年生まれなので大学4年、あるいは講談社へ入社をしてからモーニング娘。の大ファンになったことになる。

——–

私は若い頃、「ある範疇の中での一番好きなもの」を自分の中で決めなければ落ち着かないタイプだった。

一番好きな色なら水色、一番好きな動物なら犬、一番好きな芸能人なら菊池桃子さん、一番好きな戦法なら石田流、のように、誰かにインタビューをされるわけでもないのに、決めていた。

当然、テレビで女性ユニットを見たときには、この中で相対的に一番好みの雰囲気は誰だろう、というのを頭の中で考えていた。

今世紀に入ってからは、いろいろな形があっていいじゃないか、と思うようになってきたので、そのようなことは全くなくなったが、そういう意味では初期のモーニング娘。が、そのような視点で見た最後のケースだったかもしれない。

たまたま昨日テレビを見ていると、かなり綺麗な女性が出演していた。よく見てみると、元モーニング娘。の飯田圭織さん。

20世紀の終わり頃、モーニング娘。の中では誰が一押しだろうと考えて、自分の中で決めたのが飯田圭織さんだった。

 

 

 

奨励会員の私生活(昭和編)

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将棋世界1983年11月号、滝誠一郎六段(当時)の奨励会熱戦譜「でっかい目標を持て」より。

 以前にも奨励会員の私生活等にふれてきたが、今回は現役奨励会員にアンケートを取らせてもらった。(なるべく本音で語ってもらうよう努力した)

 登場人物は、ABC……(事情を考え匿名にした)で紹介していきたい。

アンケートの内容は、月2回の例会日を除いた日の過ごし方等を聞いてみた。

◯睡眠時間は?また何時頃寝ますか?

  • A二段  7時間  午前1時
  • B二段  7時間  午前1時
  • C二段  9時間  午前0時
  • D初段  8時間  午前0時
  • E1級  8時間  午前0時
  • F2級  7時間  午前0時
  • G3級  5時間  午前3時
  • H4級  8時間  午前0時

◯起きてからどのように行動しますか?

  • A二段 趣味の映画をたまに見に行くぐらいで、後は連盟で棋譜を並べたり、読書をしたりして過ごす。
  • B二段 音楽を聴いたり連盟に遊びに来たりして過ごす。
  • C二段 日中はパチンコをしに行き、夜は棋譜を並べて過ごす。
  • D初段 読書をしたり、将棋の研究をして過ごす。
  • E1級 連盟に遊びに来て。その後仲間がいれば喫茶店に行き雑談。たまには、ディスコに行きはけ口を求める。
  • F2級 家でごろごろ寝そべって過ごす。
  • G3級 高校生活を辞めたばかりで、連盟に必ず来てぶらぶらしている。
  • H4級 朝ボケッとして喫茶店に行き、昼から連盟に勉強しに来る。(たまに成人向けの映画を見に行く)

◯仲間が集った時の話の内容は?(酒の席も含めて)

  • A二段 仲間の批評。(誰が強く又、弱いのか)奨励会幹事の手合のつけ方に問題があるのではないか。
  • B二段 仲間の批評。特に女の子の話(自称奨励会のプレイボーイ)
  • C二段 仲間の悪口。野球の話。女性問題。
  • D初段 先輩の悪口。同期の悪口。後輩の悪口。女性の話。
  • E1級 女性の話。
  • F2級 女の子の話。
  • G3級 同期の悪口。女性の話。
  • H4級 女性の話。

 ちなみに女の子の話と女性の話では、内容が全然違うらしいのです。

◯趣味とそれに月いくらお金を使いますか?

  • A二段 映画。読書。2万円。
  • B二段 読書。テニス。ナンパ。4万円。
  • C二段 野球。(野球指しと言われている)ボウリング。4万円。
  • D初段 スキー。酒。2万円。
  • E1級 つり。読書。2万円。
  • F2級 山登り(若者らしい)1万5千円。
  • G3級 ありません。3万円(食事代)
  • H4級 読書。2万円。

◯収入はどのくらいありますか?それはどのようにして得たお金ですか?

  • A二段 5万円。記録と連盟の手伝い。
  • B二段 13万円。稽古と記録と連盟の手伝い。
  • C二段 3万円。記録とパチンコ。
  • D初段 2万円。稽古と記録。
  • E1級 3万~4万円。ホスト(嘘だと確信している、筆者注)
  • F2級 3万~4万円。記録と師匠の手伝い。
  • G3級 5万~7万円。記録と連盟の手伝いと稽古。
  • H4級 2万円。記録と棋士の手伝い。

◯生活費はどのくらい?そして家賃は?

  • A二段 6~8万円。1万8千円。
  • B二段 10万円。5万4千円。
  • C二段 家から通っている。
  • D初段 家から通っている。
  • E1級 8万円。2万円。
  • F2級 家から通っている。
  • G3級 家から通っている。
  • H4級 7万円。2万円。

(生活費には、仕送りも含まれている)

◯将来の目標と1日の勉強時間

  • A二段 タイトルを取りたい。6時間。
  • B二段 八段。2時間。
  • C二段 タイトルを取る。4~5時間。
  • D初段 名人。3~4時間。
  • E1級 名人。1時間。
  • F2級 四段。2時間。
  • G3級 四段。2時間。
  • H4級 六段。2時間。

 右のごとく簡単にふれてみたが、目標の答えが幹事として大いに不満であった。将来を背負う若者が四段とか六段をめざしているとは情けない。我々が先輩からよく言われた例だと自分のめざした地位から二段ひくのがだいたい本人のおさまるところである。

 この例によると四段では、退会しなければならなくなってしまう。考えを改めてもらいたいものだ。

 もうすぐ、奨励会の試験が始まる。受験生はこれらの意見及び生活環境を参考にし自分の現在の生活と比較してみるのもおもしろいのではないかと思う。

(以下略)

——–

滝誠一郎六段(当時)の、「自分のめざした地位から二段ひくのがだいたい本人のおさまるところである」が非常に印象的な言葉だ。

——–

仲間が集った時の話の内容が、有段者になるほど仲間の批評(悪口)が多くなっていることがわかる。

異性に関する話題はほぼ全員に共通している。10代、20代の前半なら必然かつ自然な流れと言える。

「女の子の話」は特定の女性に関することで、「女性の話」は不特定の女性に関することなのだろう。

——–

やはり、月に2回の例会だけで、後の日は自己管理・自己研鑚というところが本当に大変なことだと思う。

——–

私が大学4年の時、授業は金曜日の卒業研究だけで、あとは週2回の家庭教師だけ、という生活パターンだった。

学科が数学系だったので実験もなく、また、成績は良くなかったが卒業研究を除く卒業に必要な単位も3年までに取り終えていたので、このような展開となった。

その頃は、ラジオで音楽を聴きながら本ばかり読んでいた。

運転免許を取ることもせず、将棋もやらず、たまに友人たちと飲みに行くぐらい。

あれはあれで非常に貴重な1年だったと思う。

しかし、同じように時間があっても、奨励会員が置かれている厳しい環境とは全く違う、社会に出るまでのモラトリアム期間の温室の中の話。

奨励会は厳しい。

 

近代将棋が休刊した頃

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昨日、週刊将棋が2016年の3月30日号を最後に休刊すると発表された。

「週刊将棋」休刊のお知らせ(マイナビ出版)

将棋ジャーナルが1993年に、将棋マガジンが1996年に、近代将棋が2008年に休刊をしているが、それぞれ休刊の事情は異なる。

今日は、近代将棋が休刊になる頃の話。

近代将棋2008年6月号、団鬼六さんの鬼六面白談義「天国と地獄」より。

 早い話、この近代将棋も景気甚だよろしくないようである。今回、屋形船を出して大騒ぎをやる前だったか、後だったか、白岩君が私の家に来て

「来月から、不肖、自分が編集長を任じられることになりました」

と、いった。

 それはめでたいことではないか、では、早速、祝いの酒盛りをやろう、と、私が外出の支度をしようとすると、白岩君は慌てて、一寸待って下さい、と私を制するのである。何で自分が編集長を任じられたのか、その理由を聞いてくれ、という。

 そこで私は初めて、近代将棋が経営的に行き詰まり、気息奄々とした状態にあることを聞かされた。

 別に将棋雑誌だけではなく、現在、あらゆる雑誌層は、購買層低下で悩んでいる筈だが、自分達はそれでも日のまた昇ることを信じて頑張るつもりであったと白岩君はいうのだ。しかし、読者から、というより近代将棋の投稿者からきた一通の手紙が圓山オーナーを激怒させた、と白岩君はいった。

 それは近代将棋の原稿料の遅延を直接オーナーに直訴したもので、かなり皮肉っぽい文面であったらしい。社員では埒が明かぬと見て直接オーナーに掛け合ったものだと思われる。

 私も昔、将棋ジャーナルという将棋雑誌を3年経営した経験があるが、将棋雑誌というものがこんなに売れないものだとは思わなかった。ついに原稿料も支払えなくなり、それを当時の執筆者からうるさく催促されて遂に廃刊してしまった苦い思い出がある。

 金があるのに支払わないのではなく、ないから支払えないのであって、しかし、中にはそんな売れない将棋雑誌のわずかな原稿料を当てにしている執筆者もいるのだから、直接、オーナーに喰ってかかるのも無理ないような気がするのだ。

 白岩君達の恐れるのは圓山オーナーが、私が将棋ジャーナルにいよいよ嫌気がさしたように

「よし、もうやめた」

といい出しはしないか、ということであった。

 風俗産業を多角的に経営してきたオーナーにとっては絶対赤字から脱却できない近代将棋は大きなお荷物であったことには相違なく、何時廃刊してもおかしくない筈である。

 近代将棋を永井さんから引き継いでから、もう11年にもなるそうで、その間、一度だって黒字に転じたことはなく、累積赤字はどれ位かと白岩君に聞くと、5億円にもなるそうだ。まさか、と思ったものの、あの将棋ジャーナルだって、月、少なくとも200万の欠損を出していたから、3年経てば7,200万円になる。

 その頃、私は断筆宣言して遊び暮らしていたから、宴会代などを加えると、3年で1億円以上の欠損があったことはたしかで、近代将棋のこれまでの欠損が5億円というのは当然のように思えるのである。

 将棋ジャーナルを始める前、私の預金通帳には5,000万円を温存していた。これだけあれば必ず、将棋ジャーナル、復活させて見せると意気込んだものだが、今、思い出してみると自分の甘さがつくづく情けなくなってくる。

 圓山オーナーが何故、激怒したかというと、オーナーは金は出しても口は出さぬ主義で編集方針など一切、編集部に任せ、しかし、相次ぐ赤字にうんざりしながら、金策に講じていたところオーナー宛に原稿料、支払え、と執筆者からの直訴があったことだ。執筆者と編集部のコミュニケーション全くとれていないというか、その連絡のなさにオーナーは怒り出したわけで、現在の不況の状況など執筆者に説明し、一陽来復するまで稿料の遅延、承諾されたし、と、話し合いをどうして行わなかったのか、と、編集部の対応の杜撰さを指摘し、こんな情の通じない世界にはもうかかわりたくない、と、これ以上、雑誌を継続する意思のないことを示したそうである。

 それでも継続したければ当分、稿料なしで執筆を承知する寄稿者だけで近代将棋を運営しろ、というのがオーナーの意思表示で、そうなら私は編集長を辞任します、と前編集長は身を引き、代わって白岩君がその稿料抜きで雑誌を作る編集長に抜擢されたということになる。原稿料無しの雑誌が作れるものか、と身を引いた前編集長もいさぎよかったが、じゃ、自分がやってみます、と、新編集長になった白岩君もいさぎよかった。近代将棋社には、昔から私の知っている吉野、中野、森という古参の編集者がいるが、彼等がまだ編集には新人の白岩君を盛り上げて新生の近代将棋を継続させようという。これも悲壮なるいさぎよさである。

 それに普通なら3月に発売されるべき近将が今月は一月遅れの4月に発売されるのはどういうことか、と聞くと、印刷会社との間にトラブルが生じたそうで、その理由は稿料未払いのうわさが、印刷所の役員の耳に入り、今後の取引に危惧を覚え、取引停止を申し入れたのだろう。

 だから、印刷所、交換のため編集部は1ヵ月ドタバタ走りまくっていたのが発売日の遅れた真相らしい。

 正に近将は四面楚歌の状態にあることはたしかで、そこで白岩君は私の前に座り直し、

「つまり、こういうわけでして、当分、原稿料などお支払いできませんが、鬼六談義の継続、お願いできませんか」

というから、私は、ああ、いいよ、といった。

 私のデカダンスの原稿が少しでも役に立っているなら無償で提供してやるよ、と、いうと、白岩君は涙ぐんだ目を私に向けた。白岩君の苦悩に満ちた涙顔を見ていると、彼等の苦労が察せられて、こちらもおろおろするのだが、それにしても困ったものだと思った。

 この間の屋形船に出版社数社を乗船させたのも、自分は体力も限界に達しているのだから、今後の執筆注文はお断りしたいという仕事上の話があったからで、原稿料先渡しの出版社まで断って稿料無しの近将に書こうという私はアホかと思うのだが、これがつまり、将棋バカというものだろう。

 私も将棋ジャーナルを経営した頃、稿料なしで作家に連載小説を書かせたことがあった。あまりにも雑誌が売れなかったので苦肉の策として、推理作家の山村正夫とポルノ作家の丸茂ジュンに将棋を題材にした連載小説を書かせ、イラストを内田春菊に担当させた。3人とも古いつき合いだから、稿料なしで引き受けさせたが、熱のこもった力作で普段の彼等の作品より上等に思われたが、そうだからといって雑誌は売れない。ところが出版社が連載の終わりを待ち構えていて完結と同時にすぐ単行本化したが、これが売れ行き好調で、山村も丸茂も相当、儲かった筈である。だから奇を衒ったところで所詮、将棋雑誌は売れないということだ。売れぬだけならいいが、各地の将棋ファンから将棋雑誌にあんな小説を掲載するのは邪道であると避難された。各地の将棋道場からはうちに子供も来て読むのだから、ポルノ小説が載った雑誌はいらないと雑誌の取引を停止してきた。

 いずれにせよ、そんなやり難かった思い出がある。

 それはともかくとして、稿料なしで雑誌を作る、というのは白岩新編集長としてはたしかにやり難い仕事になるはずだ。恐らく、従来からの寄稿者は大半手を引くことが予想される。近将には現在、編集者が5人ぐらいいるのではないかと思われるが、恐らく給料だって最近、遅配続きであることが想像される。それでも近将を何とか持続させようとして一人も会社を去ることもなく、白岩君を最後の砦として頑張ろうとしている姿は頭が下がるというのではない。つまり、全員、将棋バカなのだ。一寄稿者に直訴されて、激怒して、俺はもう知らん、俺は忙しいのだからやるならお前ら自主的にやれ、と編集部に喝を入れた圓山オーナーだってつまりは将棋バカ、5億円もの欠損を出しながら11年も続いた近将を簡単に廃刊させることもあるまい。

 それにしても思うのだが、圓山オーナーと私は風俗産業のつき合いで、将棋仲間、永井社長の業績不振の近将を圓山オーナーに仲介して経営させたのは私なのだ。

 その頃、ナイタイの業績は好調で、一つぐらい赤字の会社を抱えてもいいと私なりに判断したのである。3年たっても赤字続きなら廃刊された方がいいと私の経験から注意したのだが、ナイタイの歴代社長も赤字の解消しない近将をすぐ撤廃すべきだと主張して圓山オーナーから解雇を言い渡されたくらいで、欠損にめげずオーナーは近将を10年以上も継続させた。将棋の魔力にとり憑かれたというか、いくら別れろと忠告されても好きな女をなかなか手放せなくなったのと同様である。

 しかし、近将の編集者諸君にも言いたいことだが、稿料無しの雑誌など姑息な手段であって、売れないものは売れないのであって、それで大勢を挽回するとは到底思えない。大廈の倒れんとするは一本の支うるところに非ず、であって、思い切ってペンクラブみたいな同人雑誌形式にまで縮小しなければ生きのこれないのではないかと思うのだ。

 しかし、近将がナイタイに移籍してから、燦然とした歴史を作ったことも事実である。あの東京ヒルトンホテルに将棋関係者を1,000人集めて行われた永井前社長の盤寿の祝い、ナイタイ全社員が動員されて開催されたあのド派手なパーティーは今でも印象に残っている。

 連盟の米長会長、中原副会長、その他数々の将棋の有名人が挨拶に立つ中で圓山オーナーは私の横でチビリチビリ、ウイスキーを飲みながら私が催促しても自分は絶対に挨拶に立とうとしない。派手なことをやるのが好きな癖に自分は表に出るのを嫌がるのである。表から隠れるのが彼の流儀であるらしいが、そんな隠れ主義のオーナーに原稿料、払え、と本人宛の投書があったのだから、彼がキレてしまうのは無理からぬことである。

 今にして思えばあの近将前社長の盤寿の会を一つの契機として近将を解散させていた方が良かったのかもしれない。永井会長も81歳の盤寿まで近将を持続できたのだから、もって瞑すべし、になるのではないか。

 いずれにせよ、近将の安価な稿料など最初から当てにしていないのだから、白岩君が無償で継続してくれと頼むなら喜んで引き受けるが、目下透析患者故どこまで体力が持続出来るかわからない。それと老衰と同時に頭脳がデカダン癖に冒されてきて暴露趣味が生じ、こんな俗悪な原稿になってしまった。近将としてまずければ、カットしてくれ。

——–

この当時、将棋ペンクラブの広報のページということで近代将棋に「将棋ペンクラブログ」というコーナーをアカシヤ書店の星野さんと私がそれぞれ隔月で互い違いに書いていた。

近代将棋同じ号の私の「将棋ペンクラブログ」より。

3月15日(土)

 将棋ペンクラブ会報の発送日、そして幹事会。鳩森神社にて。

 今回の会報は、高田宏会長と写真家中野英伴さんの対談、真部九段、田辺忠幸さんへの追悼文、バトルロイヤル風間さんの4コマ漫画「オレたち将棋ゾンビ」など、内容盛りだくさん。

 バトルさんの「オレたち将棋ゾンビ」は、週刊将棋「オレたち将棋ん族」で使えなかったネタを3本よみがえらせたもの。フルセットのタイトル戦の決着がつくのが、締切の前日深夜になるような場合、防衛できたことを想定して1本、できなかったことを想定して1本、バトルさんは書いている。そのうち使えなかったほうのネタが会報に掲載されている。一例をあげれば「郷田名人誕生!の場合に用意していたネタ」など。

 将棋ペンクラブの会報でしか見ることのできないコンテンツだ。

3月24日(月)

 バトルロイヤル風間さんと錦糸町で飲む。バトルさんは、韓国済州島で行われたレスリングアジア大会へ浜口京子さんの応援に行って帰ってきたばかり。話題はペンクラブ会報のことにも及ぶ。

「本当は『オレたち将棋ん族』にかけて『オレたち将棋んゾンビ』というタイトルにするつもりだったけど、入稿のときに『ん』を入れ忘れちゃったんだよね」

 私も今回の会報では「広島の親分(1)」という、元・的屋の大親分であり愛棋家だった広島の高木達夫さんの話を書いている。4~5回連載の予定だ。

 第1回目は、広島に行くきっかけとなった、11年前の、大阪へ向かう新幹線の中での湯川博士さんとの会話が6頁続く内容。第2回は、1年4ヵ月後の広島に舞台を移した話になるのだが、このとき新幹線を降りたあとの大阪での出来事も私にとっては思い出深いもので、ほとんど原稿化していた。しかし、これを会報に載せようとすると「広島の親分」の連載が終わる1年後になってしまう。

「将棋ペンクラブログに書くには、さすがに長過ぎますよね」

 私がこう言うと、バトルさんが「じゃあ、それ近将の別の頁に載せてみようよ。近将に話してみる」

 その結果、「別冊将棋ペンクラブログ」という別コーナーができることとなった。バトルさんにイラストを描いていただけるという豪華な環境。

「将棋ペンクラブログ」では現在のことを、「別冊」では将棋ペンクラブをとおして、今までで思い出深かったこと、今だから書ける内容を中心にできればと考えている。

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「将棋ペンクラブログ」はパブリシティなので元々原稿料の出ない頁。

次の号からは全ての記事の原稿料が出なくなると聞いて、それならば記事も減るだろうからということでの渡りに舟の「別冊」だった。

白岩編集長の力に少しでもなれればという思いもあった。

4月になって別冊の原稿を2号分送ったのだが、5月になって白岩さんから「今度の号が最後になることになったので、2回分掲載します。申し訳ありませんっ」との連絡が入った。

「ああ、近代将棋は終わってしまうのか……」

近代将棋はこの号(近代将棋2008年6月号)を最後に休刊した。

最終ページに、白岩編集長による「近代将棋休刊のお知らせ」が掲載されている。

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近代将棋、というか経営母体であるナイタイグループの経営状態がかなり悪くなっていたことは別の筋から聞いていた。

団鬼六さんが「稿料未払いのうわさが、印刷所の役員の耳に入り、今後の取引に危惧を覚え、取引停止を申し入れたのだろう」と書いているが、実際には印刷会社への支払いが何回か滞っていたのが印刷会社が取引を断ってきた理由だったと記憶している。

ナイタイ出版の看板であった「ナイスポ」は同じ年の9月に休刊をして、翌年にナイタイグループは破産している。

めまぐるしく変わる日々の情勢、その中で最終号を作り上げた編集部の方々には本当に頭が下がる思いだ。

——–

週刊将棋が休刊になるのは、近代将棋の時とは全く事情が異なるが、将棋専門の新聞・雑誌媒体としては将棋世界とNHK将棋講座のみとなる。

週刊将棋のあと5ヵ月間を、十分に味わっておきたいと思う。

 

ユニークな就位式

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将棋世界1983年11月号、共同通信記者(当時)の田辺忠幸さんの「浪速だより」より。

 9月5日の昼は、サンケイ会館パーラーで、森安秀光棋聖の就位式。関西将棋会館で対局中の大山康晴連盟会長が、昼休みを利用して駆けつけ、新棋聖に贈位状を手渡した。

 こういう会合によく顔を出す大島靖大阪市長が、祝辞の中で「大阪に”将棋公園”を作るべく計画中です。完成の暁には緑の木陰で棋聖戦を…」とぶち上げた。

 これはリップサービスか。

 将棋公園は結構な話だが、プロのタイトル戦と縁台将棋を一緒にしてもらっては、ちと困る。

 パーティーに移ると、就位式では珍しい歌の競演と相なった。いかにも神戸組らしい演出だが、仕掛け人はサンケイ新聞の福本記者か、永松記者あたりだろう。

 トップバッターは神戸組ではなく、大阪城の隣に住むという小林健二七段だったが、マイクというか、とにかく機械の機嫌が悪いようで歌声が聞きとれない。

 ところが、谷川浩司名人ら神戸組が歌い出すと、機械の調子も直り、御大の内藤國雄王位・王座と新棋聖のデュエット「憧れのハワイ航路」でお開きとなった。

 と思いきや、それが違うのである。神戸組の面々は、寿司屋に繰り込んで延々とカラオケ合戦。全く神戸組は歌が好きで、うまいねえ。歌の歌えない拙者は、この二次会だけで夜陰に乗じて姿をくらませたが、三次会、四次会と深夜まで続いたとか。

 9日の夜は、タイガースパブ「虎」(梅田店)なるトラキチのたまり場で、神吉宏充新四段の昇段祝賀兼後援会発足記念パーティーが開かれた。

 師匠の内藤王位。王座夫妻をはじめ、例によって神戸組が勢揃い。それ以外では、新婚ほやほやの福崎文吾七段・睦美初段のカップル、南芳一六段、西川慶二四段らの顔が見えた。後援会の会長は、漫才界の大御所、喜味こいしさんである。

 神吉四段は105キロの巨体を誇っている。将棋記者ではかつて108キロというひどいのがいた(実は拙者のこと)が、超100キロの将棋指しは史上初であろう。

 目方が重いからといって将棋の強さとは直接関係ないが、同じ体型の拙者としては、神吉君に盛大な拍手を送りたくなるのだな。

 それはともかくとして、ここでも当然カラオケが始まる。神戸組大シンパの西川四段が「柳ケ瀬ブルース」を歌ったあと、福崎夫妻がマイクの前へ引っ張りだされた。司会者はいつの間にか喜味こいしさんになっている。

 新妻の睦美さん、質問に答えて「棋士と結婚したのではなく、好きな人がたまたま棋士だったのです」とのろける。さらに、子供は一人でいい」。ところが文吾七段は「三人でーす」。二人は仲睦まじく「岬めぐり」を歌った。「あなたがいつか話してくれた…」。

 ”高槻組”もやるもんだね。

 拙者が福崎夫妻の席の前に陣取り、生ビールのがぶ飲みをしていると、谷川名人が「”浪速だより”のネタさがしですね。メモを取らなくていいんですか」とおっしゃる。

 これだから参るね、将棋指しは。すべてお見通しなのだから…。

 翌10日、谷川名人、福崎夫妻、そして拙者の関西勢が大挙して(といってもバラバラだが)上京、渋谷ビデオスタジオに集結した。早指し選手権(テレビ東京)の録画で、谷川名人は解説、福崎七段は対局、拙者は聞き手。福崎女流初段の方はなんでもないが、一刻でも愛する文吾さんと離れてはいられないらしい。

 大内延介八段-佐藤大五郎八段戦の後、田丸七段-福崎七段戦。

 田丸七段は「向こうは応援付きだからかなわない」と言うが、田丸の奥さんも女流プロの谷川治恵二段ではないか。夫人同伴で来ればいい。

 この、女流棋士を奥方に持つ同士の一戦はすこぶる面白い(関西的表現だと、ごっつうおもろい)大激戦の末、その道の先輩、田丸七段に軍配が上がった。

 録画が終わると、一同はNHK放送センター前の「うな将」へ。将棋関係者が最も利用するうなぎ屋さんである。名人の兄、谷川俊昭氏や、なぜか塚田泰明五段も一緒だ。

 ここでは歌なしで乾杯、また乾杯。しかし、福崎夫妻の姿はなかった。

 最初は”神戸だより”のようなもので始まり、最後は”東京だより”になってしまった。純粋の”浪速だより”はないものかね。

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福崎文吾九段の奥様の「棋士と結婚したのではなく、好きな人がたまたま棋士だったのです」という有名な言葉が発せられたのが、神吉宏充四段(当時)の昇段祝賀会の場であったことが意外で面白い。

また、神吉宏充四段の後援会長が喜味こいしさんだったというのも、新しく知る事実。

夢路いとし・喜味こいしは、上方漫才の宝と呼ばれた漫才コンビ。

喜味こいしさんの名人のような芸が、このような名言を引き出したのかもしれない。

相方で兄の夢路いとしさんは、「ふたりっ子」で通天閣将棋センターの席主を演じている。

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この頃の就位式やタイトル戦の前夜祭や昇段祝賀会では棋士が歌っている場面が多く登場するが、よくよく見てみると、歌っているのは神戸組(内藤國雄九段、谷川浩司九段、森安秀光九段、淡路仁茂九段)が中心。

カラオケで歌える寿司屋があったというのが驚きだ。

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渋谷ビデオスタジオは、2007年まで渋谷区宇田川町にあったテレビスタジオ。

場所的にNHKの至近距離であるため、収録が終わった後は「うな将」へ行くのが定跡だったのだろう。

「うな将」は、やはりNHK杯戦の対局後に棋士が行くことの多かった店。数年前に閉店しているのが残念なところ。

私も「うな将」に一度だけ行ったことがある。

その時の話は、また別の機会に書きたい。

 

郷田真隆王将「三浦さんがそう言っていましたか」

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NHK将棋講座11月号に掲載されている、私が書かせていただいた佐藤天彦八段-郷田真隆王将戦の観戦記で、行数の関係から盛り込むのを断念した部分を。

入れているとしたら、NHK将棋講座11月号73ページの”副調整室でディレクターが”の前に来る文章です。(ちなみに、以前このブログで書いた「三浦弘行九段が少し心配したこと」は、そのままの文章にはなりませんが、入れているとしたら72ページの最後になります)

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 佐藤は対局前のインタビューで、郷田の印象を「居飛車の正統派、非常に本格的な将棋だという感じを受けています」と語った。

 郷田は、佐藤の印象を「まだ対戦が少ないのでわからないことも多いですが、若い世代の中では受身、渋い将棋という印象を持っています」と語っている。
 解説の三浦弘行九段も、「私もそう思います。佐藤さんは苦しい局面でも耐え忍んで逆転するタイプ。苦しい時に勝負手を放って暴発するようなことがありません」と同意する。さらに、「郷田さんも佐藤さんと似た棋風だと思います。郷田さんは攻めが鋭いですが、受け将棋かなと思っています」とも。
 郷田といえば攻め将棋のイメージ。しかし郷田とは20年以上戦ってきている三浦が言うのだから説得力がある。
 対局後、郷田に聞いてみた。
「三浦さんがそう言っていましたか。三浦さんとの対局の時は彼から攻めてくることが多いからそのような印象なのかもしれませんね」
 なるほど、そういうことか。
 数日後、佐藤に聞いてみた。
「受身で渋い将棋ですか?僕は自分の将棋はバランス型だと思っているのですが……」
 棋風は対戦する棋士によって感じ方がさまざまに変わってくるものなのかもしれない。

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佐藤天彦八段の棋風から。

羽生善治王座は、王座戦五番勝負の直前に佐藤天彦八段の棋風について次のように語っている。

佐藤さんとの対局はこれまで3局と少ないので、まだ棋風がとらえきれていないところもあります。受けが強い将棋といわれることもあるようですが、先手で角換わり、後手で横歩取りはどちらも自分から攻めないといけない作戦ですし、動くことを中心に考えているのではないかと思います。

第63期将棋王座戦五番勝負 9月2日開幕(日本経済新聞)より

たまたま同じ頃だと思うのだが、佐藤天彦八段は、将棋世界10月号でのインタビューでも自身の棋風をバランス型と答えている。

【ノーカット版】第63期王座戦挑戦者 佐藤天彦八段インタビュー「自信と期待の五番勝負」(マイナビ将棋情報局)

これまで、受けが強いという面が出る勝負が多かった、ということなのだろう。

佐藤天彦八段はインタビューでも語っているように、あまり棋風を固定化して考えずに、局面に従っていいと思った手を指す、という姿勢(=バランス型)だ。

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観戦記では”終局後、郷田と話す機会があった”と書いているが、詳しく書けば、郷田王将はこの日の夜に別の用事(将棋界に関係する会社のパーティー)があり、それまでの時間、NHKの近所の初めて入るレストラン風酒場で1時間ほど飲んで話をする機会があった、ということになる。

「男二人で来るのはもったいないような雰囲気の店ですね」と郷田王将が言うほどの、カップルや女性客がほとんどを占める店だった。

そこで冒頭の、「三浦さんがそう言っていましたか。三浦さんとの対局の時は彼から攻めてくることが多いからそのような印象なのかもしれませんね」の話に続く。(NHK杯戦では対局者は、解説者がどのような解説をしていたか、対局相手がインタビューでどのような話をしていたか、放送日まで知ることができない)

私が、そういえば、昔の将棋世界で銀遊子(片山良三さん)が「郷田2級は受けに味がある」と書いていましたね、と言うと、郷田王将は、「いやいや、僕の奨励会初段頃までの将棋は好き放題指していただけで滅茶苦茶でしたから」と笑いながらビールを飲んだ。

郷田真隆2級(当時)「原因不明なんです」

やはり、郷田王将は自身が攻め将棋であるこということを貫いているように感じた。

やっぱり郷田王将は格好いいな、と少し酔い始めた頭で思った。

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NHK 将棋講座 2015年 11 月号 [雑誌]

将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(10月24日)

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原田泰夫九段の盤寿の会が終わった後の森内俊之九段と島朗八段(当時)

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将棋世界2004年1月号、池崎和記さんの「関西つれづれ日記」より。

10月某日

 正午から原田九段の盤寿を祝う会。大変な人だかりで、出席者は約500人とか。さすがは原田先生である。

 鈴木宏彦さんがいたので内藤-島戦の結果を聞いたら「内藤先生の快勝でした」。かなり早い時間に終わったらしい。すごいのはこのあと。鈴木さんは内藤九段と千駄ヶ谷で12時ごろまで飲み続け、その後、勝浦九段と田中寅彦九段が合流して、さらに新宿まで繰り出し、結局、朝まで飲んでいたというのだ。みんなタフだ。

 会場で内藤九段を見かけたので「島さんに快勝したそうですね」と声をかけたら、ニヤリと笑う。ごきげんである。ついでに「朝まで飲んでたそうですね」と言ったら「2軒目以降は覚えてないんや」とおっしゃる。

 淡路九段と畠山鎮六段も来ていた。淡路さんは前日、大阪で島本四段と王位戦(予選)の対局があったから早朝の新幹線でやってきたわけだ。ところが話を聞くと、その島本戦がすごい勝負だったらしい。

「千日手になってね」と淡路さん。

「よくあることじゃないですか」

「指し直し局が持将棋で……」

「えーっ」

「3回目の将棋が午後10時ごろに始まって、終わったのが12時過ぎや。4時間の将棋やで」

「じゃあ、ほとんど寝てない……」

「着替えんといかんからね。家に帰って朝6時に起きた」

 恐れ入りました。

 パーティーは約2時間。僕はそのまま大阪に帰るつもりだったが、出口でスカ太郎(加藤久康さん)につかまった。森内九段と島八段が待っているからマージャンをしませんか、というのである。

「3人マージャンでしょ。スカさんがいるから揃ってるじゃない」

「いや。島さんは4人でやる3人マージャンが好きなんです」

 というわけでホテルを出て、駅前の繁華街で雀荘探し。島さんと並んで歩いていたら、彼はベテランの先生は強いですね。桐山先生とか内藤先生とか、ホロホロにされますよ」と、しきりにぼやいていた。内藤九段に負けた直後だから無理もない。

 島さんのマージャンは楽しい。彼は四六時中しゃべりまくっている。それもマージャンとは関係のない、プロ棋界の裏話(活字にはできない)ばかりで、そのくせ「きょうはライターが二人もいるから、うかつなことは話せませんね」となどとのたまうのだ。

 この島流「おしゃべり戦法」にほんろうされ、結局、マージャンは僕とスカ太郎の負け、という結果になった。

——–

「ホテルを出て、駅前の繁華街で雀荘探し」とあるが、ホテルニューオータニの近くの駅は四谷か赤坂見附か麹町。駅前に繁華街があるのは四谷か赤坂見附だが、四谷に雀荘があるとも思えないので、麻雀は赤坂で行われた可能性が高い。

 

——–

池崎さんは、この前の晩は佐藤康光九段などと午前2時か3時ころまで飲んでいる。

佐藤康光棋聖(当時)「先崎はダメですからね、先崎は」

鈴木宏彦さんは前の晩、内藤國雄九段などと午前4時まで飲んでいた。

内藤國雄九段と酒

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原田泰夫九段の盤寿の会が行われたのが2003年10月25日(土)。12年前の今日にあたる土曜日だ。

私は、10月24日(金)の夜から、歌舞伎町にあった「ナイトプレーヤー亜沙」で将棋関係者と飲んでいて、午前2時に店が終わってからは店の人達ともう1軒飲みに行って午前5時か6時頃に家に帰っている。

原田九段の盤寿の会に遅れないように行かなければ、と強く思いながらも、起きたのは11時30分過ぎ。かなり重度の二日酔いだった。

会場に着いたのは13時15分前後だったと思う。

原田泰夫八十一歳祝賀会

原田泰夫九段(3)

会が終わったのが14時なので、ほとんどの来場者は真っ直ぐ家には帰らなかったものと思われる。

私の知り合いの人たちは、寄席に行ったり別件の用事があったりとで、飲みに行く相手を見つけることができなかった。

ふと考えると、パーティーも含め、今日は起きてから何も食べていないことに気がついて、ニューオータニから歩いて10分ほどの麹町のインド料理店「アジャンタ」へ向かった。

アジャンタは私の学生時代は九段下にあった店。

この店のマトンカレーが絶品で、この日もマトンカレーを頼んでいる。

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2年前の夏、私は副鼻腔炎の手術で8泊9日の入院をしていたわけだが、午前11時頃に退院して、その足で向かった店が「アジャンタ」だった。(病院は飯田橋)

退院の前の日、執刀医の先生に「退院してからすぐに、かなり辛いインドカレーを食べても大丈夫でしょうか?」とダメもとで聞いたところ、「全く問題ありません」との返事を得ていた。

病院での食事に不満はなかったが、やはり退院した日には思いっ切り好きなものを食べてみたいものだ。

アジャンタでマトンカレーを食べながら、もし刑務所に入るようなことがあったら、出所直後はやっぱりアジャンタに来るのかな、と考えたりしていた。

 


2015年10月将棋関連新刊書籍

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大時代的な表現の順位戦予想

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将棋世界1991年7月号、「順位戦星取り表」より。

淵に沈むな彗星たちよ

 夢と希望、そして人生までをも飲み込んでしまうブラックホール。それがC2順位戦だ。

 この穴に陥った彗星たちは、失意の淵に沈み、漆黒の闇が身体中にまとわりつき染まり、そして星屑と化す。この歴史を見るにつけ、注目の男がいる。

 中川大輔だ。3年連続8勝2敗を挙げながらいずれも次点。実力もあり順位もいい、成績だっていい、なのに上がれない―。神の選択は彼にとり無情だったが、そろそろ機嫌を直してくれるだろう。中川を本命に推しておく。

 次はズバリ郷田。棋聖戦と王位戦での活躍は見事なもの。キリリと引き締まった顔立ちは”若武者”と呼ぶにふさわしい。深紅の甲冑を身にまとい、天駆ける跳ね馬に跨った郷田が、闇の中を疾走する姿が目に浮かんでくるようだ。

 ここでハタと困ってしまう。もう1人、いったい誰を挙げればいいのか?少し下の方をのぞいて見ると、4つの新星が控えめながら瞬いている。

 その光芒の中で、一番鮮やかな色彩を放っているのが藤井だ。2敗すればそこで終わりの位置であるが、若さは困難を駆逐する最良の剣。桜の花が咲く頃にはアッと驚く結末がやってくるだろう。

 このクラスは他にも候補はいくらでもいるが、それをいちいち挙げていたのではキリがない。が、後2人だけ要注意的存在の、強い絆でむすばれた畠山鎮、成幸の編隊を挙げさせてほしい。

 前期、50・51位で並んでいた2人だが、今期も仲良く23・24位で並んでいるあたりはさすが双子。

 1人走ればもう1人と、連鎖反応があるのだろうか。前述の3人と当たっていないのも強み。この兄弟が棋界初のアベック昇級を果たせば、棋史に残る偉業となる。

(以下略)

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この期のC級2組では、有森浩三五段、石川陽生四段、丸山忠久四段がそれぞれ9勝1敗で昇級している。

8勝2敗が先崎学四段、中田功五段、畠山鎮四段、平藤真吾四段。(段位は当時)

予想は難しいものだ。

——–

この文章は誰が書いたのだろう。

ケレン味たっぷりの大時代的な表現がとても面白い。

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大時代的というと、江戸川乱歩の小説で明智小五郎が怪人二十面相に対して何回も言っているであろう「正体を現したな、悪の化身、二十面相!」を思い浮かべる。

相手を捕まえなければならない1秒でも無駄にできない緊迫した場面なのに、「悪の化身」と、当時でさえ誰も日常会話では使わないような言葉がわざわざ入るのが趣のあるところ。

本格的な大時代的な表現としては、木村義雄八段と坂田三吉八段の南禅寺の決戦の時の新聞の見出し。

「ああ死闘! 聖盤に砕く肝膽」

肝膽は現在では肝胆と表記する。

昭和50年代以降の大時代的な表現の代表的な例としては、故・萬屋錦之介さんの演技。もう誰もできないような絶妙の芸。

 

第63期王座戦第5局対局場「常磐ホテル」

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羽生善治王座に佐藤天彦八段が挑戦する王座戦、第5局は甲府市の「常磐ホテル」で行われる。→中継

常磐ホテル」は、日本旅館の感性と都市型ホテルの利便性を兼ね備え、また皇室の利用も多く、甲府の迎賓館と呼ばれている。

常磐ホテルのある湯村温泉は、信玄の隠し湯の筆頭と伝えられる由緒ある温泉。

 

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〔常磐ホテル内のレストラン〕

常磐ホテルでの食事は和風のコース料理が基本だが、館内にはレストランもある。レストラン「柏」での昨年のホームページに掲載されていた昼食向きメニューは次の通り。

静岡産うなぎ蒲焼き丼 2,800円
ひらめの白身丼 2,500円
海鮮丼 2,250円
サーロインステーキ重 2,250円
特製天ぷら蕎麦 2,000円
ワインビーフカレー 1,500円
信玄鶏のグリエ 1,500円
ふんわり玉子のデミオムライス 1,500円

〔常磐ホテルでの昼食実績〕

常磐ホテルでのタイトル戦の昼食実績は次の通り。(将棋棋士の食事とおやつによる。タイトル・段位は当時のもの)

2014年王座戦第5局

羽生善治王座 ●
昼食 国産うなぎ蒲焼重
夕食 おにぎりセット(梅・おかか・昆布)

豊島将之七段 ◯
昼食 五目チャーハン
夕食 おにぎりセット(梅・おかか・昆布)

2013年王座戦第5局

羽生善治王座 ◯
昼食 天津丼
夕食 天ぷらそばセット

中村太地六段 ●
昼食 松花堂弁当
夕食 海鮮丼

2011年名人戦第7局

羽生善治名人 ●
一日目 天ぷらそば・いなり寿司
二日目 松花堂弁当

森内俊之九段 ◯
一日目 天ぷらそば・いなり寿司
二日目 カレーライス大盛

2008年名人戦第5局

羽生名人、森内九段とも、
一日目 天ざるそば、いなり寿司
二日目 肉うどん、焼おにぎり

この対局は、森内九段が勝っている。

〔昼食予想〕

羽生善治王座は、一昨年、天津丼と意外性のあるメニューを選択しているが、この2年、ご飯系となっているので、今期もご飯系と読みたい。

佐藤天彦八段は、昼は洋食系、夜は和食系と予想。

羽生善治王座
昼食 ふんわり玉子のデミオムライス
夕食 おにぎりセット

佐藤天彦八段
昼食 ワインビーフカレー
夕食 海鮮丼

 

 

村山聖五段(当時)の勉強法

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近代将棋1990年7月号、故・池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 オールスター勝ち抜き戦の米長・村山戦を見に行く。急戦相掛かりから米長王将は飛車を5筋に転換。名人戦第3局は中原流▲5六飛(▲5七歩型)が大きな話題を呼んだが、米長流は▲5五歩-▲5六飛型。ただ玉が5八にいるので、こちらもかなりの珍形だ。王将は村山陣の一瞬のスキを衝いて速攻をかけ、それが見事に決まって快勝。これで6連勝。

 感想戦で王将が「相掛かりはよく研究してるんだろ」と言うと、村山さんは首を振って「いえ、研究は……」。王将は「研究してないと指せないだろう」と笑っていたが、私は村山さんの言葉にウソはないと思う。彼は今まで二百円以上の駒を買ったことがない。そんな駒でコツコツ研究しているとはとても思えないのだ。ただ、彼は連盟に来て棋譜を並べることが多い。たぶん、それが村山式勉強法なのだろう。「研究」といえるかどうかわからないけれど。

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昔はおもちゃ屋などで、100円位で将棋の駒(紙の盤付き)が売られていた。

押し駒(スタンプ駒)が中心だったと思うが、昭和40年代までは手書きの駒も多かった。昭和30年代までの天童の主力商品がこれらの駒だった。

駒木地は、まき(マユミ)・ほお(ホオノキ)・はびろ(ハクウンボク)・あおか(ウリハダカエデ)・いたや(イタヤカエデ)から作られていたという。

天童の将棋駒(天童市の観光ガイド)

現在は650円~1000円台の値段となっているが、今見ると、小学生の頃を思い出してしまうような懐かしさに溢れている。

 

羽生善治名人「体力は森内君にかないませんよ」

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将棋世界2004年7月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第4回 羽生名人は全力を出したことがない」より。

どうしてそこまで?

 和服とセーター、分厚い座布団と折りたたみ椅子の違いはあっても、髪をかき上げ苦悶するさまはタイトル戦中継で見慣れた姿と変わらない。

 京浜急行蒲田駅から徒歩3分、「大田区産業プラザ」の1階会議室―2004年「百傑戦」は、最大のヤマ場を迎えていた。6年ぶりに参加した将棋の羽生善治名人が5戦目を終えて単独2位に立ち、いま1位の選手と直接対決を戦っているのだ。事実上の決勝戦である。

 ここまで羽生名人は3勝2分けで計4ポイント。この2つの引き分けにはわけがある。前日―3月27日に指されるはずの3戦目と4戦目を、名人は「女流棋士発足パーティー」に出席するため棄権し、規定により引き分け扱いとなったのである。

―それで優勝されちゃ、チェス界の人間として恥ずかしい―

 と、羽生名人と戦っている男は当然、思っている。4勝1分け、計4.5ポイントで首位を走る男こそ、われらがモーオタ、塩見亮であった。

 二人の対戦成績はここまで羽生名人の3連勝。だが、この一局が大熱戦になっていることはチェスがわからなくてもわかる。端にいたルークを中央に活用した名人が、駒を二度三度、盤に押しつけた。あの「グリグリ」が、チェスでも出た!

 森内竜王に次々とタイトルを奪われた羽生名人にいま、かつてない不調説が囁かれている。事実なら、まず考えられる理由は疲労だが、チェスへの尋常でない熱中ぶりにはこんな疑問の声もある。

―もう将棋には飽きて、チェスへの転向を考えているのではないか―

 げんに4月からの名人戦7番勝負と朝日オープン5番勝負をひかえた3月最後の週末を、羽生名人はこうしてチェスの勝負に没頭しているのだ。

 くうっ。名人が顔をゆがめ、声にならない声を発する。どうしてそこまでやるんだ?佐藤棋聖が、森内竜王が、呆れる理由がわかる気がする。

 やがてモーオタは静かに駒を倒し、投了の意思表示をした。ついにトップに立った羽生名人は次の7局目も制し、百傑戦2度目の優勝をはたしたのだった。

 惜しかったな、モーオタ、と声をかけようとして息をのんだ。あのお気楽男が床の一点を見つめ、唇を噛んでいる。

「くやしいです。将棋の力で負けたのならしかたがない。でもきょうは、羽生さんにチェスで負けた。定跡書を読むだけじゃなく、グランドマスターの棋譜を何局も並べていなくては指せない手をやられて負けた。僕はまだ甘いです」

 そして、独り言のようにつぶやいた。

「いったい、いつ勉強してるんだ……」

 かくして平成15年度の最後に、将棋界の誰も知らないところで、羽生名人に百傑戦優勝という「棋歴」が加わった。

「300キロの世界」

 蒲田駅までの夜道を、野口恒治さんと話しながら歩いた。会社員の野口さんは元奨励会員である。才能に見切りをつけ退会してからは駒に一切触れないと心に決めたが、あるときチェスを覚えると、たちまちのめり込んだという。

「一度ゲームにはまった人間の本能というのか……中毒なんですね。僕は、将棋を何かの理由で続けられなくなった人間が向かうのが、チェスだと思うんです」

 突然、野口さんの口調が改まった。

「こんなことを僕がいうのは失礼ですが、羽生先生もそうなんじゃないかという気がするんですよ」

 何ですって?

「将棋に打ち込みすぎると、誰だってどこかおかしくなります。羽生先生はそうならないよう、将棋にブレーキをかけてるんじゃないか。だからあんなにチェスに熱中するんじゃないかと……」

 電流が走るように蘇る記憶があった。平成5年刊行の『対局する言葉』(毎日コミュニケーションズ)の中で英文学者の柳瀬尚紀氏に羽生名人が語った言葉だ。

<アイルトン・セナ、もう亡くなってしまいましたけど、やっぱり時速300キロの世界で「神の存在を見た」って言い出したときがあるんですよ。(時速300キロの世界は将棋にもあるのか、との問に)そうですね。どんどん高い世界に登りつめていけばいくほど、いわゆる狂気の世界に近づいていくということがあると思うんです。一度そういう世界に行ってしまったら、もう戻ってくることはできないじゃないですか。そういうことに対してやっぱり多少、抵抗感みたいなものがあるのかな、と>(以上抜粋)

 狂気の世界をのぞいてしまった羽生名人はその手前でブレーキを踏み、たぎるエネルギーをチェスに向けたのか?

 そんなバカな、とは思う。だが、いわゆる「羽生マジック」について考えると、荒唐無稽とも思えなくなってくるのだ。

「羽生マジック」とは何か、解釈はさまざまだろうが、日浦市郎七段は以前、こんな話をしてくれた。

 1図は急戦矢倉の将棋で先手が▲3五歩△同歩▲同角と7九にいた角をさばき、後手の△4四銀に対し構わず▲2四歩と突いた局面。この▲2四歩が昭和62年、(先)有吉道夫VS谷川浩司戦で有吉九段が指した新手だった。

 ここで△3五銀と角を取るのは▲2三歩成から飛車先を破られる。だから後手は△2四同歩と応じ、▲2三歩△同金▲2四角以下、3筋と2筋の歩を一度に交換できた先手が十分な展開となった。

トリビア5

 たまたま連盟でこの将棋の検討に加わっていた日浦七段はしめたと思った。あさっての対羽生戦に、これを使おう。

 はたして思惑通りに局面は進み、日浦▲2四歩で1図。ところが―。

「羽生さんは、1分で△3五銀と角を取ったんです。1分で、ですよ」

 実際の後手の考慮時間は2分と記録されている。それだけ日浦七段の衝撃は大きかったのだろう。以下は▲2三歩成△4四角▲3二と△同玉……と進んだあと、後手が△2六歩から最後は△2一飛と回る遠大な構想を見せて70手で圧勝した。

「有吉-谷川戦の検討では、△3五銀なんて誰も本気で考えなかったのに……」

 真夏の午後、怪談でも語るような日浦七段の表情が印象的だった。

 駒得よりも飛車先を破るほうが価値が高い。それが将棋の「筋」である。将棋は人間には少し難しすぎるゲームだが、こうした「筋」に頼ることで棋士は読みを絞り込み、正解に近づいていく。ところが、将棋にはごくまれに「筋」にない手が正解になる場合がある。そんな例外を拾い上げるのが「羽生マジック」ではないか、というのが私の仮説である。

 しかし「筋」に頼らず指すという酷使に、いったい人間の脳は耐えられるものなのか?そう考えるとき、「300キロの世界」という言葉が頭をよぎるのだ。

チェスをやる理由

 京都から東京へ向かう新幹線の車中。私の隣に羽生名人が座っている。朝日オープン5番勝負第2局の帰りだった。

 この幸運と、敗戦翌日でも屈託のない名人に感謝しながら、質問を開始した。

 なぜ羽生名人は、あんなにチェスに熱中するのか、巷ではおよそ3つの説がいわれています。将棋に役立つから。将棋の海外普及に役立つから。チェス転向を考えているから。どれでしょう?

「えーと、どれも違うんですけど(笑)」

 そのあとは立て板に水だった。

「チェスは、とくに海外の大会はハードなんです。私のような素人でもグランドマスターとすぐに当たるんですよ。過去7回やって6敗1分けです。吹っ飛ばされます。読み、大局観、センス、すべてが違う。海外に行く機会がなければ、こんなにチェスをやってなかったですね」

 あのー、うかがっていますと、チェスが「ハードだから」やっていると聞こえてしまうんですが?

「あ、そうですよ」

 名人は、何か変ですか、といいたげに口をとがらせた。

「強い人と対戦するのが好きなんです。将棋も、もちろん強い人ばかりとやってますけど(笑)、これくらいってわかるじゃないですか。レーティング2600の人ってどれくらい強いんだろうと思うと指す前から楽しみでわくわくします」

 しかし、オフにも勝負で疲れませんか。

「疲れるっていうのは時間的なことより、慣れてないからなんじゃないですか。慣れてくればそう疲れませんよ」

 羽生名人がチェスに転向してしまうのでは、と心配する声もあるんですが?

「たまたまチェスだから、将棋に似てるから気になるんでしょう。チェスの前にやっていたバックギャモンでも、海外の大会に出ていたんですよ。トッププレイヤーの人は、出すサイコロの目まで、やっぱりすごいんです(笑)。バックギャモンの前はモノポリーだったし、いつも、ゲームを何もやってないということはないんです。ほかの棋士が競馬や麻雀に夢中になるのと同じですよ」

 車内放送が小田原通過を知らせる。そろそろ「300キロの世界」に踏み込もう。

ゴールがないゲーム

(『対局する言葉』を見せて)これ以上考えていると狂気の世界に入ってしまう、と感じたことが、実際にあるんですね?

 少し考えてから、名人はいった。

「いや、ないですね」

 えっ、一度も?

「ええ、ないですね」

 それはやはり、そこまでいく前にどこかで自制しているからですか?

「自制するつもりはなくても、限界まで力を出しきるというのは難しいですね。いままで一局も、全力を出しきったと思える将棋はありません。指しているときはそのつもりでも、あとから見ると、そうじゃないことがわかるんです」

『対局する言葉』での話とは、ニュアンスが変わっている。

「マラソンみたいにゴールが決まっていれば限界もわかるんでしょうが、将棋っていつ終わるかわからない、ゴールが設定されていないゲームですからね」

 森内竜王は羽生対策として、ゴールを意識して体力を温存する指し方に変えた。羽生名人にはそもそもゴールという意識がない。竜王が名人の体力に驚嘆していた話をすると、名人はけらけらと笑った。

「体力は森内君にかないませんよ」

 正直、最近お疲れではないですか。

「年間89局指した年(平成12年度)よりは楽です。楽すぎます(笑)。それに、トップクラスをめざす人はどの世界でも、これをこなさなくてはいけないので」

 すべてを額面どおりに受け取れば、「300キロの世界」をおそれるどころか羽生将棋は底無しだ。そのうえ余暇にはチェスのハードさを求めている。

 名人はまだ変わっていきますか?

「ええ、それだけは間違いありません。なぜなら、その本でしゃべったことをいまはまったく覚えてないからです」

 変節につぐ変節ってとこです、と自嘲する名人を見て私は自分でも意外な言葉を口にしていた。かっこいいですね。

「どこがですか(笑)」

 破顔一笑して名人は、私をおいて品川駅で降りていった。

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まだ変わっていきますか、と問われて、

「ええ、それだけは間違いありません。なぜなら、その本でしゃべったことをいまはまったく覚えてないからです」

と答えているのが、本当に格好いい。

そして、無意識のうちに良い意味での変節をし続けていることが、羽生名人の強さと進化の根源なのだと思う。

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羽生名人がチェスをやる理由。

たしかに、何かの役に立てようとか思った途端に、それは趣味や楽しみではなくなる。

何かの知識を得よう、自己啓発をしよう、と思って恋愛をする人はいない。理屈抜きで好きになるから恋愛なのであって、そういった意味では趣味と恋愛は似ているのかもしれない。

ただし、趣味と恋愛は両立が難しいと古来より言われている。

自分を振り返っても、将棋世界や近代将棋やNHK将棋講座のバックナンバーがほとんど揃っていなかった年度がいくつかあって、それはそのような方面にエネルギーを傾けていた時期と一致している。

人生はなかなか難しい。

 

天野貴元さん逝去

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天野貴元さんが10月27日、多臓器不全のため亡くなられた。享年30歳。

アマチュア棋士の天野貴元さん死去 闘病中も大会出場(朝日新聞)

【将棋】元奨励会三段の天野貴元さんが死去(スポーツ報知)

病気と闘いながらの将棋普及や大会出場、奨励会三段リーグ編入試験など、天野さんは多くの人に感動をもたらせてくれた。

……とはいえ、やはり若い人が亡くなるのはとても辛い。

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昨年、天野さんの著書「オール・イン」が将棋ペンクラブ大賞文芸部門対象を受賞したときの、天野さんの受賞のことばより。

失うことによって手に入れたもの

 私にとって「プロ棋士」という職業は、「もしなれたらいいのになあ」といった手の届きそうもない遠い夢ではなくて、確実で具体的な自分の未来像として存在していたものでした。

 プロ棋士になるということは、夢や憧れではなく自分に課せられた絶対的な使命であって、高校にも行かず、将棋一本に賭けてきたのもそれを固く信じていたからです。

 それだけに、プロ入りすらかなわなかったという結末は、私にとって予想だにしない、受け入れがたい痛恨でありました。

 大きな目標を失った私が直面した問題は、将棋が強いということ以外に何も取り柄のなさそうな自分が、これからどうやって生きていけばよいのかという切実な問題でした。

「人間が生きていくうえで、将棋が強いことにどんな意味があるんだろう」

 いまもってその問いに対する明快な答えは分かりませんが、少なくとも自分が奨励会でやってきたことがすべて無駄に、台無しになったということはない。それを私に教えてくれたのが「がん」の経験だったと思います。

 奨励会退会から約1年後に「舌がん」の宣告を受け、その後「生きる」という新しい目標に向かって、私はいま最新の治療を受けています。

 正直なところ、現在の形勢はあまり良くないと見ていますが、どのような局面であっても最善手を模索するメンタル面の重要性は、将棋が私に教えてくれたことのひとつでした。

 あの厳しい三段リーグに10年も身を置いた人間が、これしきのことで簡単に投了することはできない。そう考えれば、将棋に学んだことは、本当の意味で私の力になっているのです。

 残念ながら、私はプロ棋士になって自らの将棋でファンを楽しませることはできませんでした。

 しかし、そのかわりにこうして本を出すことができ、このたび思いがけず価値のある賞をいただくことができました。

 何かを失うことによって、自分が思ってもみなかった別の人生を手に入れることもあるということを、私はこの本を出したことによってはじめて知ったような気がします。

 いつ何時でもいい、「将棋の世界にもこんな奴がいたんだな」と、どこかで誰かに思っていただけたら、それは私にとって最高の救いです。

 何者でもない私の本を、高く評価してくださった方々に、この場を借りて深く感謝いたします。そして本書が、ひとりでも多くの方々が「将棋」に興味を持つきっかけとなることを願ってやみません。

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謹んでご冥福をお祈りいたします。

天野貴元三段(当時)の「八十一格の青春」

 

 

バナナから始まった友情

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近代将棋1988年6月号、湯川博士さんの書評エッセー「不滅の名勝負100」より。

 将棋ファンが将棋界をながめる時、どうしても自分の生き方を重ねて見ることになる。そういう意味からいうと、今中年のファンは重ねるべき対象が少なくて可哀想である。

 10代20代の若者に制圧された将棋界で、わずかに気を吐いているのは、中原名人、真部新八段、B2へ昇級の滝六段くらいであろうか。真部、滝のご両人は、長い中だるみのあとのランクアップで、これはたいへんな偉業である。

 中年になってランクをひとつアップする―これはいかに難しいか。どんな職業に当てはめたって、中年諸氏には胸に突き当たる所があろうというもの。

 将棋の本を見る時も自分と重なり合う部分が多いほど、楽しさも倍増する。

『不滅の名勝負100』は、大人の将棋ファンがジックリとつきあえるつくりになっている。

 古今の名棋士が、いろいろな因縁で激突するさまや、悲運強運が織り成すドラマを棋譜とともにギッシリと詰め込んである。それからまた、案外知られていないエピソードを見つける楽しみもある。

 昭和15年の春。第2期名人戦が木村-土居の対戦で幕開けしたが、その時に誰も予想だにしないハプニングが起きた。

 名人戦第1局の先後について、主催紙大阪毎日から、「名人に敬意を表して挑戦者先番で指して欲しい」という申し入れがあった。

 名人戦の運営にたずさわる将棋大成会幹事長の金子金五郎もこの案に賛成だった。というのも、挑戦者土居にとって先番は有利だし金子は土居の弟子なのだ。

 ところが思わぬ人物が異を唱えた。

 なんと当の土居市太郎である。

「勝負は気合いのもんじゃ。公平な振り駒にしてくれ」と一歩も退かぬ構え。ついにこの主張が通って、以来タイトル戦はすべて振り駒になったという。

 ルールは人がつくる見本である。

 昭和29年の名人戦では、時間切れ負けという珍事が発生。起こしたのは升田幸三挑戦者。局面は終盤で升田有利。

 記録係が「1、2、3……10」といった瞬間、大山名人はアッといって記録係を見る。つられて升田も見て「時間切れたか」と聞いた。

 記録係が「はい、少し」と答えるや、「それじゃ負けだ」と升田はさらりと駒を投げてしまった。

 切れたか、と聞かれて記録係が「はい、少し」という所はなんとも可笑しい。記録係としては、切れたかなどと聞かないで欲しい。黙って指し続けて欲しかったろう。

 升田には史上初の三冠王や名人に香落ちで勝つなど天才的な面もあるが、大ポカでタイトルを失ったり、事件を起こして出場停止になるなど軽率な面もある。どちらにしても動きが派手で大向うを喜ばす棋士である。

 升田より小つぶだが、世間をあっといわせたのが、森雞二の剃髪事件だ。

 昭和53年、名人戦が朝日から毎日に移ってすぐの記念すべき対局の第1局目。観戦記者に作家の山口瞳氏を迎えての大一番だ。

 当日朝定刻に入ってきた森挑戦者は修行僧のごとく青々と頭を剃り上げていた。立会人の大山十五世名人が異様なムードを柔らげようと、「坊主が二人になった」とジョークをいい、花村九段も「坊主にするなら、私に仁義を切ってくれなきゃ困るね」と笑わせるが、中原名人と森挑戦者の表情はこわばったままだった。

 この時の観戦記を、山口瞳氏は二通り書き、「紙面に合うほうを選んで欲しい」と言ったそうな。おそらく硬軟二本書かれたのだろうが、直木賞作家がそこまで気を入れて書いてくれたというのも、剃髪事件があったればこそと、思う。

 昭和31年5月仙台。

 塩釜(宮城)の天才少年中原誠(8歳)と八戸(青森)の天才少年池田修一(11歳)の対戦があった。大勢の将棋ファンが見守る中での大熱戦の結果、池田少年が勝った。

 対局後外へ出た中原少年は、池田少年が買ってくれたバナナを食べた。後の中原名人は、「その時のバナナの味は今でも覚えている」と語る。

 昭和31年のバナナは超高級品で、ふつうの家庭の子供は遠足か運動会でしか食べられない。11歳の少年が8歳の少年に買い与えるというのも、相当凄いことだ。今ならば金持ちの子供がマスクメロンをおごるような感じだろう。

 このエピソードを読んだ時、「あっ」と声が出そうになった。それはあるエピソードと火花を散らして結びついたからである。

 池田修一少年は15歳でプロ入りし順調に昇級して行ったが、三段に昇った時突然病魔に襲われた。当時結核は絶対安静しか手がなく、池田三段は涙を飲んで故郷に帰り静養をすることになった。一緒に奨励会に入った仲間はどんどん棋士になって上がってゆく。自分はいつ退院できるかわからないベッドの住人。

 その焦燥感たるや、たまらないものがあったろう。

 暗い青森のベッド生活で、唯一の光が仲間だった棋士からの定期便だった。その励ましに力を得てか、何年か後に棋界に復帰し念願の棋士にもなれたのである。

 この定期便の主の名前と、棋士池田修一の結びつきがどうもわからないままであったが、これが氷解した。

 このバナナのエピソードは、「中原の自然流」(東京書店)という古い本に出ていたのを、担当執筆者の横田氏がすくい上げてこのページに使ったものである。

『不滅の……』は20数人の執筆者が出版社から分担を決められ資料を与えられて書いたものである。(かくいう私もその一人)しかし実際の執筆に当たっては、各自が各自の資料を豊富に駆使して書いている。この貴重なエピソードもそうした努力のひとつである。

 本書は、20数人のライターが、手に入る限りの資料、頭に詰まっている沢山のネタを駆使した文章で出来上がっている。

不滅の名勝負100―昭和の将棋史 不滅の名勝負100―昭和の将棋史

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たしかに、昔はバナナは高級果物の雰囲気があった。

調べてみると、1963年のバナナの輸入自由化が実施されるまでは、バナナ1本が現在の貨幣価値に換算して1,000円もしていたと言われている。

1950年前後のデータだが、コーヒーが20円の時代にバナナ1本が40~50円。昔ながらの喫茶店のコーヒーの値段の倍以上していたということは、現在に置き直して考えてみれば、たしかに1,000円を越した金額だったと言える。

バナナの自由化後は、現在に至るまでほとんど値段が変わっていない。

総務省統計局家計調査年報によると、バナナの1kg当たり単価は1960年で218円、2014年が245円。

ちなみに、りんごは1960年の1kg当たり単価が77円で、2014年は405円、みかんは1960年が100円で2014年が347円。

バナナが卵とともに物価の優等生と言われる所以だ。

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そういう意味では、昔はパイナップルも高級感溢れる果物だった。

目の前に現れるパイナップルはいつも缶詰ばかり。パイナップル本体が家庭でも一般的になるのは1970年代になってからだった。

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映画「男はつらいよ」シリーズで車寅次郎がバナナの叩き売りをやるシーンガ出てくるが、バナナの叩き売りは、傷がついたものや、痛む寸前のものが売り物となっていたという。

バナナが高級品であった時代だからこそ成り立つ芸で、バナナの安い今の時代には難しい販売方法だ。

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元近代将棋編集長の中野隆義さんによると、大山康晴十五世名人は、熟しすぎて黒くなったバナナが大好物だったという。

また、加藤一二三九段は、対局中に十数本のバナナを房からもがずに一気に食べたという伝説を持つ。

バナナ自由化以前の時代から活躍していた棋士は、それぞれのバナナへ対する思いを抱いているのかもしれない。

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池田修一少年と中原誠少年の話は、また別に紹介したい。

 


花村元司九段の侠気

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先ほどの記事「バナナから始まった友情」に出てくる故・池田修一七段の物語。

若い頃の中原誠十六世名人が登場するのはまだ先(明後日)だが、昔の話やエピソードがとても面白く興味深い。

将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

「よろしくお願いします…」。

 送ってきた母は、かぼそい声をのこすや走り去っていった。その家は、これよりさき不明の世界にとびこんだ師匠花村元司の棲む家で、いまから30年も前の、15の春たけなわのころであった。

 翌朝、目を覚ますとホウキ、それにハタキが。ガキ大将で漁師街に育った私は、ホウキやハタキといえば、チャンバラや喧嘩の道具でしかなかった。さて、どうしたものか?しばし、立すくんでいると「ハタキはこうやってかけるもんよ」。花村夫人の母が、新聞紙に水を浸し、それを要所、要所にちぎり捨て、ぱた、ぱたとハタキをかけてみせた。年季の入った主婦の芸。当時は、まだ電気掃除機もそう出回っていなかった時世であったか、一般家庭ではこうやって掃除を。内弟子になって1日目の初めに正しいハタキのかけかたを教わったと同時に、こりゃいささか勝手の違うところへきたと云う印象が強く残った。

 なにせ、そのころの花村家には、次の人達が棲んでいた。いの一番にハタキのかけかたを教えてくれた花村夫人の母と父。夫人の兄夫婦一家4人に、同じく寿司屋へ勤めている弟と大学生の弟。加えて、花村とは古くからの腐れ縁とも云うべきか竹中某。伊勢湾台風で被害に…と云う松谷老。それに居候であるかないかはさだかではないが、白髪の紳士と云ったかんじの川瀬某。花村は妻と一人娘(香澄)の他に、大なり小なり皆をまとめて面倒みる図であった。総勢14人。そこへ、居候がまた一人。敷地は50坪ほどか。さすがに敷地いっぱい近く建てられた総2階の家も、そう広くはかんじられなかった。

 当時の花村は不惑を2、3超え、やや翳りが…、といった現象をはねのけ、A級へ帰り咲き、意気のあがっているころであった。

 ふだんの花村は、雨でも降らぬかぎりは家に居ない。対局もあれば、競輪に行って稽古先へ。さもなくば東海3県方面か、他の地方に…。そもそも浜松出身で贔屓筋は東海道筋が多かったし、事実、”東海の鬼”とした異名もそこから発した異名であった。が、これらの仕事むきがないときは、朝から近所の喫茶店へ競輪新聞かた手に竹中某と。やがて適当な時間の頃合を見計らって競輪場へ愉しみに?で、夕方帰ってきて手拭いを頭に銭湯へ。ところで花村の頭は、太平洋戦争で南方へ招集されたさい、デング熱にやられたとかで頭髪が抜け、そこへ剃刀をあて、さらに奇麗な坊さんの観に仕上げていた。その坊主頭に神通力が潜んでいるかのように映ったが、後年考えるに「しょんない」と頭を撫でるポーズの裏で、一瞬して光る眼の配りこそ、それ…とかんじるは、大人になってからの話であった。

 とりあえず私は所在なく明け暮れ、要領が悪いままの内弟子生活を送っていた。

 時にはこんなこともあった。

 雑巾がけを終え、朝食を済まし、ホッと一息ついていると、玄関さきにあって突如として「先生いるかい」と、かんだかい声がした。

 立ちあがろうとした私に、新聞に目を通していた花村夫人の父が眼だけをあげ、居ないと云っておきな…と云われ、額面通りの言葉を用意して玄関にはしり、その旨を伝えた。

 男は、一見テキヤ風で仁王のように立ち、私を逆に胡散臭そうな小僧…と云った眼つきで睨み付けていた。途端、シマッタと思った。なにせ鼻村の草履、下駄が並べてあった。

 当時の花村は和服一辺倒で、競輪から帰ってきて着流しで銭湯へ…の図など、住んでいる下町によく似合っていた。住まいは荒川区日暮里。と、云うより京成”新三河島駅”で下車。「冠新道」と云った方が早い言い回しであった。

 で、さきほどの男は?花村は2階にいたが、意外なほどのおとなしさで帰って行った。やがて花村はでかけ、まだ帰っていない夕方に、彼の男の逆襲があった。

「今朝がたは、よくも小僧に門前払いを…」と、一杯きこしめて喚いてきているのであった。対し、居留守の知恵を授けた主は、「君は出てくるな」と云ったのはいいが、男に、いつまでこんなことをやっているんだ。真面目に働いたらどうだ…まがいの正論一点張りで、益々男を激昂に追いやり、最後はパトカーを呼ぼうか…でようやく帰って行った。

 いまは不可能だが、花村は25歳で付け出し五段の特異な経歴に示されるよう。全国の賭け将棋指し、将棋浪人連中に憧れと尊敬の目でみられ、ともすれば勝ってに頭目視し、行けばなんとかなるとか?草履を脱ぐ観で寄る人も結構あった。又、肚のなかはどうあろうと人に対して嫌な顔をみせる花村ではなかった。つまり今朝の男も顔を合わすと電車賃か?煙草銭か?無心であったことは容易に想像がついた。そのころは自宅の一部を後援会の道場にしていたが。が、棋士の家にしては異色。こうした世界をみてか”任侠の花村”。若い時分に名古屋方面で親分を張ったことも…と伝えきく。戦前の棋士になる前の隠された一面を垣間見た思いがした。

 が、花村は天成あかるく、人を逸らさずと云った資質が具わっていた。それに後天的だが、手入れの行きとどいた坊主頭がトレードマークで、ひたいの真ん中には仏さまのように人目を惹く大きな”エボ”が。そして早口のせいか?よく吃る癖があり、屈託のない雰囲気のなかに、どんな試練をみてきたか…。けっして笑わぬ例の目が顔全体をひきしめ、少年時の感じではずいぶん大柄と映ったが、あとでおもうにそうでもなく中肉中背であった。

(中略)

 なにせ、とりあえず15人からの生活が花村の一局、一局に直接、間接に響いていた。

 当時は池田内閣が所得倍増をうちあげ、それに向かって邁進中であり、庶民的にはまだまだ貧しさがそこら中に転がっている時代であった。御多分に洩れず将棋界も…。でなくても世間の歩みから一歩ずれた観のある団体であった。が、花村はA級の位置に加え、得意な経歴、人柄等をして花型棋士の一人で連盟や後援者筋と合わせ収入は結構?と思われたが、そのころを振り返り夫人が云う。「私も勤めていたのよ…」と。現在の花型棋士と比べたら隔世の感であるが、それでも花村はA級の花形であることを思えば、なにゆえに夫人が―。

 しかし、当時の世相をして15人もの大世帯を将棋で支えて行くには大変であったか…。加えて、酒を呑まぬかわりに競輪。博才も天性のもので麻雀、花札、賭け碁等に興じていれば、かつては本職となった将棋よりうえ?かの伝説もあり、小遣いが増えこそすれ、減りはしない観であったが、わざわざ小遣いを減らす競輪に。競輪は終生変わらぬ道楽であったが、内弟子時代は儲かれば道場を守っている松谷某や、通称”軍帥”の竹中某に小遣い銭を…で、しょせん家計のたしになる金とは程遠そうであった。花村家の台所事情は、むろん少年だった私の知るよしも…。しかし、とうに仕送りが途絶えていることさえも知らなかった。おそらく母に送られてきたっきり…であったのでは。さきに行ってもさまざまな場面と折衝を。だが、訊き出せない質問であったし、花村自身そんな話に触れたがる性じゃなかった。が、その話を母に訊いたときは、だまって横をむいていた。

 そうこうしている間に、現在連盟へ勤めている関口勝雄五段が長野の高校を卒業し、内弟子にやってきて、花村家は16人。もうじき野球をやれそうな人数になり、かれこれ1年が過ぎようとしていた。花村の負担がまた重くなったわけだが、相変わらず頓着なしで対局、後援者巡り、さもなくば競輪。と、雨でも降らないかぎり家には?否。雨が降っても終日じっと家に居た姿の記憶はなかった。が、家に居るときは例の缶入りピースを買ってくるぐらいしか…の用を云いつけなかったが、やはりなんとなく窮屈で呼ばれるとふたつ返事で…。しかし、その他の場合は横着をきめこみ、後から入ってきた関口さんのひきあいに出されていた。現在も変わらずであるが、関口さんは生真面目ななかにも、当時から飄々としたユーモアのある青年で、ひきあいに出される方こそいい迷惑であった。

 同じ屋根の下で大家族のそれぞれが、それぞれの葛藤をくりかえしながら1年が去ろうとしていた。私は5級で入ったが一向に上がらない級。大家族のなかで雑巾がけの日々。はたしてこれらの世界はいつまで…と、子供心に不安と焦りを感じていた。

 だが、花村は次の一手を用意していた。中野に在った連盟が、現在の千駄ヶ谷に引っ越すと云う。で”塾生”に。なるほど名案であった。とりあえず居候が一人減り、少しでも身軽になれるし、だいいち私のためになることであった。これで当面の居、食、それに多少の小遣いも…。と、するより、諸先輩のしわぶきにじかに触れる機会が多く、棋譜なども即、目に入る日常生活と一変し、タガが外れたようにもとの腕白に戻って行った。そこらも花村の読み筋で、次の対局のおり、一枚の色紙を書いて持ってきてくれた。

 その色紙には私への為書きがしてあり、「正直」「親切」の言葉が認めてあり、師花村元司と署名があった。”東海の鬼”の冠頭印などを作り、色紙に「平然」「果断」「決断」「共栄」とか揮毫しだすのはまだ後年のことで、この時点における花村は、筆を持つのはおよそ苦手な分野で、「よせやい…」の話であったし、がんらい達筆と云える質ではなかった。が、達筆とはほど遠い気がした字であったけれど、几帳面な真面目さが…。それに、これからの新しい生活を「かく心得て…」。なによりも、その観が滲み出ている字であり言葉であった。「正直」「親切」。ともあれ、花村の色紙を部屋に掲げ、塾生生活が始まって行った。

(つづく)

——–

故・池田修一七段は1945年青森県八戸市の生まれ。花村元司九段の最初の弟子であり、2000年に引退、2006年に亡くなられている。

青森県の将棋普及に非常に大きな貢献をしている。

1990年代後半には、将棋世界で「私の愛読書」という連載エッセイを執筆していたほどの読書家だった。

——–

家族、親戚、食客を含め15人の人を食べさせるというのは並大抵なことではない。

社員7~8人の芸能プロダクションを1人のタレントだけでやっていくようなものかもしれない。

この「師匠と弟子の物語 花村と私」では、花村元司九段や升田幸三実力制第四代名人などの魅力が存分に語られている。

このシリーズは土曜までの4回続きます。

 

第28期竜王戦第2局対局場「京王プラザホテル札幌」

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糸谷哲郎竜王に渡辺明棋王が挑戦する竜王戦、第2局は、札幌市の「京王プラザホテル札幌」で行われる。→中継

京王プラザホテル札幌」は、札幌駅から徒歩5分で観光・ビジネスにも便利な高層シティホテル。

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10月13日から、ロビー及びエントランスの全面改装工事が行われており、12月中旬には新しいロビーに生まれ変わる。

 〔ホテル内のレストラン〕

ホテル内のレストランとタイトル戦の昼食に向いたメニューは次の通り。

カフェ「デュエット」

自家製パンチェッタのスパゲッティアマトリチャーナ 1,400円
シーフードドリア 1,600円
ミートソーススパゲッティ 1,400円
チキンカリー 1,600円
クラブハウスサンドウィッチ 1,500円

広東料理「南園」

五目入りチャーハン 1,200円
あさり入りチャーハン 1,340円
海の幸入りつゆそば 1,600円
野菜入りつゆそば 1,300円
海の幸入り焼きそば 1,600円
鶏肉と海老、カボチャのオーブン焼きグラタン仕立て 1,200円
豆腐と秋野菜入り、上海蟹味噌煮込み 1,500円
上海蟹味噌入りふかひれスープ 1,600円
秋野菜入り土鍋四川麻婆豆腐 1,200円
秋の野菜入り黒酢の酢豚 1,500円
(10月の南園ランチ。1品1,300円、2品1,500円))
玉子入り海老のチリソース
回鍋肉
豚肉とピーマンの細切り炒め
パイナップル入り酢豚
麻婆豆腐
白身魚と根菜の甘辛ソース
鶏肉と栗の黒味噌煮込み
帆立貝と野菜のガーリックバター炒め
イカと茄子の青山椒炒め
きのこ入りあんかけ焼きそば

和食「みやま」

牛すき重 1,600円
ひさご御膳 1,600円
旬の味めぐり膳 2,000円

ろばた・すし・北のめし「あきず」

『石狩』1,800円<握り8貫、天ぷら、茶碗蒸し、椀物、惣菜バー付>
『十勝』2,500円<握り10貫、天ぷら、茶碗蒸し、椀物、惣菜バー付>
『生ちらし重』1,800円<茶碗蒸し、天ぷら、椀物、惣菜バー付>
鶏肉と野菜のあんかけうどん 1,300円
生寿司ランチ 1,680円
天婦羅定食 1,300円
麺類ランチ 1,000円
フォアグラ入り 牛肉のつくね煮込定食 1,300円
チキン南蛮定食 1,300円
煮魚定食 1,300円
生寿司と三色丼 4,000円
特選生ちらし 3,000円
三色丼 3,600円
いくら丼 2,500円
うに・いくら丼 3,500円
うに丼 3,700円

〔京王プラザホテル札幌でのタイトル戦昼食実績〕

京王プラザホテル札幌での昼食実績は次の通り。(将棋棋士の食事とおやつによる)

2014年王位戦

羽生善治王位 持将棋
一日目 北海道黒米うどん 生寿司(5貫)
二日目 特製海鮮ちらし

木村一基八段 持将棋
一日目 特製海鮮ちらし
二日目 ビーフカレー

2011年女流王位戦

甲斐智美女流王位 ◯
自家製パンチェッタのスパゲティアマトリチャーナ

清水市代女流六段 ●
タラバ蟹と噴火湾産帆立貝のドリア

〔昼食予想〕

糸谷哲郎竜王は、竜王戦七番勝負では意外とカレーの採用率が高い。

渡辺明棋王は魚系を中心としてくることが予想される。

糸谷哲郎竜王
一日目 自家製パンチェッタのスパゲッティアマトリチャーナ
二日目 チキンカリー

渡辺明棋王
一日目 煮魚定食
二日目 特選生ちらし

 

 

 

升田幸三九段の叱り方

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将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

 ところが「正直」、「親切」。その言葉が心のかたすみに在りながらも、私は奔放に暮らし、青春?を肩で生きるような観で過ごしていた。悪ガキの先導に、喧嘩はスポーツがわりで他にさまざま。当然、これらの風評が花村の耳に入らぬわけがなかったが、云っても無駄…。とうにサジを投げたか?たぶんそうであろう。なにも云わなかった。それをいいことに益々増長の途を。初段だった18のころ、塾生を退めたい…と。その日は、花村が対局で帰りそびれ麻雀か碁で夜明かしをした朝であったかに、きりだしていた。

 話をきいて花村の顔が一瞬くもり、眼じわにしわの寄る渋い表情に変わっていた。「………」。むろん私も、きりだしたはいいが、次の言葉を見いだせず押し黙ったままであった。数秒の沈黙。だが、花村の口がひらくまでの時間が逃げだしたくなるほど長く感じられた。

「やって(暮らして)行けるのかい…」。

「ええ、なんとか?」

 じっさいはなんのアテもなかったが内弟子、塾生と暮らしてきて、とにかく現在よりもさらに自由がほしかっただけであった。上京して3年。都会生活にも慣れかけた私は”男一匹”どうしたって行きて行ける気がしていた。

 ああしろ、こうしろと教訓、忠告めいたことはいっさい云わぬが花村流で、このときも拍子抜けするほど無条件で煙草をくゆらせながら、「しょんない奴ちゃ…」のポーズもみせ容認していた。干渉しないかわり、干渉もさせない。”自由に行きてみろ”と突っ撥ねられたが、過去の人生をみるに花村こそ、斯く生きてきた張本人であった。ともあれ家から仕送りは論外の話として、アルバイトの稽古先とても一軒も…であったが、かぎりなく自由な観がして18歳の青年は、”さあ、やるぞ”と新天地に駈け出して行った。

 そのころはよく升田幸三元名人の家に…。酒を呑めない花村に比べ、元名人は酒豪中の酒豪で話が明快なうえ、陰翳の豊かさがあり、もじゃもじゃ頭に髭と炯々たる眼光…。それは教祖か、仙人かのような風貌と風采で、いかにも”将棋の棋士”と云った観で奨励会の子にも解りやすかった。この家に行くとビールを呑め、幾ばくかの小遣いを貰えることもあったが、なによりも主の将棋に懸ける執念で張りつめたものがストレートに伝わってきて、つかの間、自分も強くなったか?のような錯覚を覚えるのが心地よかった。

 元名人の家は、奥さんと2人の男の子がいて一家4人。その後、関口さんも塾生になったとはいえ、それでも花村の家は13人か、14人の大世帯で、そこには元”居候”が遊びに行ってもしょうがないし…の世界で、花村と顔を合わすのは、たまに対局の折でしかなく自然と足が遠のいて行った。かの分だけ元名人の家に足が多く向かうことになっていた。

”酒”と”バラ”の日々。まったく当時は、そんな気分で過ごしていた。が、若さと自由だけは人に倍してあったにしろ…金が無かった。友達のところを遊びとも居候ともつかず転々と。そして、アルバイトで詰将棋を作り、たまに金が入れば遊興に。否。金が無くとも誰かの懐をあてにして遊び暮らし、そのなかで将棋だけが強くなることを夢みて…。棋士のたまご、小説。画描き。漫画。写真。おまけに実業家、政治家を目指す者までいたが、どの顔も青臭い書生論だけで、”ハシ”にも”ボウ”にもかからない”チンピラ”と云ってよい若者達で、似たような境遇と臭いを持ち合わせていた。

 そうしていると金が詰まってくる。金の工面が多少でも…と云えば、内弟子をやめていらい疎遠となっている花村に頼めた義理ではなく、むろんたいていは自分でつくるのだが、どうしてもとなれば悪童連中から詰将棋を買い集め、元名人の家へ走ったこともあった。他人がつくった詰将棋をろくに検討もせず横流し。と、ある日。元名人はその詰将棋を出題してしまっていた。当然、余詰め。はたまた、類似作などの問題があり、読者より鬼の首でも取ったかの抗議が…。で、あの誇り高い元名人の”メンツ”と”怒り”はいかほどにあったものか?想像するに現在でも冷汗と赤面の世界で、思わず背筋が熱く…。

「池田はなにをやっておるんじゃ」。私はさっそく元名人から指名手配の身になっていた。

 例えば連盟へ行くと、「キミ、升田先生が家へこいと言っていたよ」。続いて、「なんだかエライ怒っているみたいな風だったよ」の一言が必ず付け加えられていた。それらを伝える人は、ただ”エライ怒っているらしい”と剣幕を伝えるのみで、その理由は解っていないが当の私は”エライ剣幕”の因を充分過ぎるくらい充分に知っていた。こいつあ、まずいことになったぞ。自分のまいた種ながら2、3日どうしたらいいのか悩んだ。が、悩んでいても解決にならず、いかように叱られようとも…の肚を決め元名人の家へむかっていた。

 頭からカミナリが…の予想を覚悟して行ったのに、詰将棋問題を忘れたかにまったくそのことに触れず、むしろ日頃より機嫌良さそうな元名人の顔をみて、なんだあの件ではなかったのか?と訝しながらもホッとしていくのを覚えた。やがて、ビールが。そして、出前も。それにつれ私の気持ちも、すっかり自分のしたことを忘れかけ、いい気分になりかけていった。むろん酔うほどに元名人は談論風発で、帰るときに車代をくれるぐらい御機嫌と映った。が、くつを履き、「ありがとうございました」と、挨拶しようとした瞬間であった。

「キミ、生活が荒むと人間は嘘をつくようになる」「………」「誤ちは一度だけだぞ」。肚の底から絞り出す図太い広島訛りの入り混じった声と、独特の云いまわしでビシッと釘を…。さいごに強烈なひと言をくった私は、その夜どこをどうして帰ったかわからなかった。瞬間、元名人の眼は厳かなひかりを放っていたことだけが焼きついてはなれなかった。

 そんなできごともあったが、耳に入ったか?入らずか?花村はいっさい黙っていた。と、云うよりうしろめたさを持つ私は近づかなかった…と云った方がはやかった。

(つづく)

——–

升田幸三九段の懐の深い叱り方。

本人は悪いことが痛いほどわかっているわけで、余計な言葉はいらない。

「誤ちは一度だけだぞ」が本当に救いのある言葉だ。

——–

升田幸三九段は、著書「王手」で次のように書いている。

 叱るということは教えるということであって、それを叱らんのは、思いやりがないからです。思いやりがないから、叱ると反対に出てゆくんじゃないかと、恐れたりする。

(中略)

 しかし、叱るといっても、ウマが合わんとか、気に食わんとかいって、まるで目のかたきにして、ぐじぐじといじめるのがおる。こういうのは、叱る、とはいいません。いびる、という。

 後藤又兵衛は黒田官兵衛(孝高)に使えて一万石もろうとった侍ですが、官兵衛の息子の長政の代になって、浪人をした。長政がどうも又兵衛を嫌いで、ことごとにいびるもんだから、又兵衛もうるそうなって、浪人してしもうた。

 この長政というのは、いつも戦争になると、真っ先にとびだしてゆく。それで手下が、”危ない、危ない”というておるのを聞いた父親の官兵衛が、

「あれでええ。さもなくば戦にまけるだろう。あれはわしのように参謀になって勝てる器じゃないわ」

 といったという話が残っておりますから、官兵衛よりは一段、人物がこまかったらしい。こまければ、又兵衛のような大物は叱れん。

 島津久光もそうです。斉彬は大人物だから西郷隆盛を自由自在に使ったが、久光は使うどころか、奄美大島に流したり、謹慎させたり、足ばかり引っぱっておった。やっぱりこれも、叱れんくち。

 人を叱るには、叱る器でないとねぇ。今はその器がおらんということでしょう。

(以下略)

——–

黒田官兵衛にまで広島弁をしゃべらせてしまうのが升田流の真骨頂だ。

それにしても、升田幸三実力制第四代名人の数々の言葉、非常に説得力がある。

 

王手 (中公文庫) 王手 (中公文庫)

 

中原人情流

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将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

 だいたい花村は弟子をとって、弟子に期待すると云った風がまるでなかったみたいだし、すでに48、9を迎えていたが、自分は稀代の”勝負師”だとする自負、自信に溢れて映った。当時の弟子はすでに五段となっていた吉田利勝七段を筆頭に、関口さんのちょっと後で門下に加わった、現在の野本虎次七段と、私の3人が奨励会でもがき合っていた。野本七段は初等科からの卒業生でしばらくは師匠なしのまま奨励会に…。が、ある日。そのころ八段だった五十嵐豊一九段の記録係を務めていた野本君に、「ほう、キミはまだ師匠がなしだったのか。じゃ、花村さんでどうかい?」。五十嵐裁定のもとに、「は、よろしくお願いします」。と、話がとんとん拍子に運んで弟子となり、機に浦和高校の1年であったかを中退し、本格的に将棋の世界に飛び込んだのであった。

(中略)

 ところで私は、19、20歳を迎えるかの頃からときどき微熱をだすようになっていた。が、若さでなあに気のせい?やがて、咳も頻繁に…。と、至っても徹夜したり、遊びに疲れ、疲れては眠るという生活で体をごまかしていた。そのうちだんだん痩せていき、百日咳かにも似たあやしげな咳がいちだんと激しく、神経だけは奇妙な透明感を宿す感じとなっていった。友達は結核かも知ンネエから一度診てもらえと、医者へ行くことを勧めたのは当然であった。

―肺結核―。ここ数年の無軌道な生きざまのツケが…。病状は自分が誰より知っている現象であったし、入院、治療の覚悟みたいなものを決めていたのだが、しかし、この場面でのそれは、死ねと云われるほど困った。

 せめて四段になっていれば。社会保険証書がもらえ、僅かながらも手当がもらえるとして、三段じゃ、第一に入院、治療のメドとてつかなかった。いまさら好き勝手に越してきて花村に相談するわけにはいかなかったし、まして、親に相談できる環境ではなかった。が、咳をすると血が混じる症状へ進み、対局で座っていることもかなわぬ状況となり、傷ついた獣が古巣を目指すように郷里の八戸へ。途中、花村の家の在る日暮里は、東北本線でも、常磐線でも通る。あのときは常磐線の夜行列車であった。いずれすぐ知れることであろうが、花村に黙って郷里へ向かう私は、日暮里、田端と視界から遠ざかっていく駅を眺めていると無性に熱いものがこみあげてきてならなかった。「自業自得」。昭和41年、7月。妙に頭が冴えざえしていた。ただ、激しく咳き込むのだが空を切るのみなのが息苦しく、まんじりともしない夜汽車の”北帰行”であった。しかし、1、2ヶ月もしたら元気になって戻れるだろう。正直なところ心の底じゃ、まだそんな風にたかをくくっていた21歳の夏であった。

 友達も結核なんて旨い物を食って、本を読んだり、音楽を聴いたりしてじっと寝てりゃ治るさ。と、云って勇気づけてくれた。私は一面で読書したり、音楽鑑賞等はきらいな分野じゃないし、そうか…少しの間ならそれもそれでいいじゃないか…という気になって入院した。加え、昔は不治の病と忌み嫌われていた結核であるが、「イイ薬」の登場で昭和41年頃はもう大丈夫な病気に?まだ、現状を軽くみているところがあった。

 入院した時点で医師に訊く。「いつ頃、退院できるでしょうか」「いつ頃?」。医師も返答に困ったであろうが、「いま暑い盛りだから秋風が吹く頃になるかなあ」。そして、入院した夏が過ぎ、本当に秋風が…。「先生…秋ですよ」。「否、これから寒くなり風邪をひくと大変だから、温かくなって春になったら」。春がくると「木の芽どきは病原菌も活発に…」。やがて、2回目の夏が。も、「暑い盛り…」。その秋も、「これより寒くなるし」の調子で阻まれ。しかし、医師は入院、治療費をいっさい取らず、個室までを。費用は出世払いとの暗黙の諒承のもとにおける入院生活であった。しかも、いまだ出世払いの約束を果たせぬばかりか益々遠く…。現在に至るも世話になりっぱなし。なお、後年になってからであるが、医師と花村の間で面白い?ひとこまがあった。

 医師は会議か、所用で上京したおりに連盟へ立ち寄って、赤柾の上等な盛り上げ駒を買い求めて蔵していた。その駒箱に花村の一筆を「ぜひ」の話となり、まずは蓋に手をかけた。なるほど逸品であった。「ところでこの駒は?」。花村は値段のほどを訊いた。医師は自分の目で見比べて、これが良しと求めてきた値段を云った。が、次にでた台詞はまさしく花村流で、「先生これじゃ池田君はあまり儲けていませんよ」。意表を突く台詞がとびだしていた。一瞬。背景が背景だけに、医師はまばたきを…。私は相槌のうちように困った場面となっていた。だが、そんな台詞をさらりと軽やかに云ってのけるあたりの呼吸がいかにも花村流で、それでいて人に嫌味を与えぬ妙な人徳があった。医師は、そのときしばし会った印象で、いかにも博才豊かな相をしていたなあ…と感じ入っていた。

 そうした医師の温情でどうやら入院、治療の方はしのげた。が、入院していても身のまわりの諸々に金が入りようであった。ところが金策のアテがまったく無く途方にくれ、途方にくれたすえ、恥をしのんで或る推理作家に金のむしんを頼んでいた。その作家は、まだ三段だった頃の名人(中原誠)に紹介され、入院する時分まで稽古に行っていた私の唯一の稽古先であった。借金のことは、すぐ若き日の名人に知れる図と…。おもえば中原経由で知り合いになった人だもの、知れようことはごく普通の話であった。

 池田が困っている。当時の名人は、棋士としてデビューしたばかりだが、いまの10代、又は、20歳になりたての棋士も真っ青な勢いで、ただ勝ちまくっていた。その、合間を縫うようにし、ほどなくして私の入院先に現れていた。「………」。頃は、木の葉が少なくなった頃であった。そのときの嬉しさをなんと表現したらいいのか…筆舌にあらわせる言葉もなく、ただ嬉しかった。ばかりか、「身のまわりに月々いかほどの金が必要か?」。そしてそれを毎月送るのだと云う。しかも、退院し社会復帰するまで。「いやあ、いくら友達でもそんなに迷惑をかけちゃ」。「なに云っているんだい。それより早くよくなれよ」。「しかし、いつ退院できるか」。「まあ、何年だってかまいやしないよ。とにかくキミが元気になるまで…」の言葉を残して帰って行った。約束どおり名人は毎月現金書留と便りを。その便りには、今月は先輩の誰々さんも協力してくれて等、諸々が端正で几帳面な字で書いてあった。

 医師と親友。二人の人間がいなかったとしたら私の入院生活は…。いまにして思うに、ただしく奈落の淵を歩いている観があった。

 ともあれ、こうして昭和43年の5月まで臥せっていた。…さて、病気は治ったが…。かの期間中、多少”大人”になった私は、元気になれた顔を真っ先に申し出なくては…と思い、上京するや花村家に直行していた。

 花村の門をたたいてこのかた、早くも8年の歳月がたっていた。が、日暮里、新三河島の街並みはあまり変わりばえしていなかったし、花村も天命を織る歳を1、2歳越したかであったが、勝負勘は衰えるどころか益々冴え、若手も顔負け以上の活躍をみせていた。むろん健康そのものといった艶。あいかわらず屈託をみせぬ朗活さで、寿司などを取ってくれた。

 私は期待しないことだけに驚いたが、なぜ、寿司か?は、すぐにわかった。もはや食客は一人もいなかったけれど、代わりに夫人の弟が世帯を持ち、家の一角で寿司店を。で、食客も居づらく…。しかし、やはり賑やかな花村家に変わりはなかった。

 花村も当然”入院中”のことは知っていた。

 そのせつ、「これからも中原さんと相談して生きて行くといいや…」に続いて、「しっかりやれや…」と。いぜれにせよ、私は黙ってうなずくのみであった。夫人にも、「池田君、早く四段にならなきゃあダメよ」。三段の連中が一番気にしているところをぐさりと衝かれ、花村家をあとにした。

(つづく)

——–

池田修一三段(当時)が長期入院していた当時、中原誠十六世名人は四段、五段の頃。

当時の対局料の規定では、どんなに勝ち進んでも四段、五段ではそれほど収入に余裕がなかった時代。そのような状況で毎月支援をしたのだから、なかなかできることではない。

昭和31年5月の仙台。池田少年が中原少年に買ってくれたバナナがきっかけで始まった友情。

——–

「傷ついた獣が古巣を目指すように郷里の八戸へ。途中、花村の家の在る日暮里は、東北本線でも、常磐線でも通る。あのときは常磐線の夜行列車であった。いずれすぐ知れることであろうが、花村に黙って郷里へ向かう私は、日暮里、田端と視界から遠ざかっていく駅を眺めていると無性に熱いものがこみあげてきてならなかった」

この気持ちが痛いほどわかる。

東北本線でも常磐線でも東北新幹線でも、東京を離れるときに目に入る光景は、鶯谷であり日暮里、西日暮里であり田端。

これらの地に思い出があって、なおかつ傷心で北国へ帰るとしたら、堪らない気持ちになるだろう。

なおかつ夜行列車。

——–

それにしても、いくら当時とはいえ、長期の入院費が催促なしの出世払いとは驚いてしまう。

誰かが本人には内緒でということで支払っていたとも考えられるが、将棋が大好きな担当医でもあったようなので、この辺の仕組みは謎のままだ。

どちらにしても、古き良き時代の素晴らしい話だと思う。

 

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