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花村元司九段でさえ手こずったこと

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将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

 私は休場明けをして出て行くやすぐ四段となり、昭和44年から順位戦に参加していた。が、病気を機に思うところがあり、郷里に在し、対局のおりだけ上京。といった生き方を選んでいた。地元紙”デイリー東北”に将棋欄をつくり、青森県南地方の八戸市を中心とした将棋界に漸く活気が生じ始めたころであった。たまには中央から棋士を…。当然ながらそうした気運もしだいに高まっていき、誰をよぼうか?となっていった。

 そこで花村が…。で、なくとも、まずは師匠を八戸に招き、1回は十和田湖でも案内し…と思っていたやさきでもあった。

 そんなある初夏の午前で、いまは大学1年となっている娘が2歳位になったか…で遅い朝食をすまし、のんびり一緒に遊んでいるときであった。花村から電話が…。さて?なんだろう。つい先頃、八戸へ来て帰ったばかりだが。と、受話器を取った。

 電話のむこうはいそぎがちな声。でなくとも、ふだんより早口気味で物ごとをはっきり云うは花村流。用件は、「豊橋で盤を処分したい人がいるんだが、あいにく私のところでは買うお客さんがいなくてね。きみのところでどうだい?もし、買う人がいたらあす浜松へ行くんだけど一緒に…」。そして、「私は10万マージンを頂きたいんだけどね」の、一言を付け加えることも忘れなかった。

 私は、あからさまに頭から「10万」とあっけらかんに云ってのけた花村流の毒気にビックリした。が、不思議と不快感はなかった。むしろ、自分が欲しいのは「これだけ」と云い切ってくれた方が交渉しやすく、なるほどと感心させられると同時に、私を頼むにたる相手と見込んで、「どうだい?」と話を持ちかけてくれた…そのことの方が嬉しかった。

「わかりました。ちょっと待ってください」と、返事して電話をいったんおくや、心あたりの人にあたってみた。この文章を書くにさいして、買った当人には”タネアカシ”を。で、あるが、当時は内緒で花村マージンを上乗せし、「豊橋で師匠の知り合いが盤を手放したいと云ってきているが、どうする?」と持ちかけていた。「いいさ、買おう」。ふたつ返事で応え、「して盤は、いつ?」。「実は、あす師匠が浜松へ行くついでに…」。「おう、そうか」。話は3分とたたぬうちにまとまって、これで宜しく頼むと旅費の名目で私に10万を。再び、花村に電話を入れ、翌日の午後、東京駅で会う約束となっていった。

「よう、御苦労さんだね」。東京駅で会うと花村は、いつもの屈託のない笑顔をみせ、私たち弟子が通称”集金カバン”とよんでいたカバンの中から、例の両切りピースを出して火をつけた。背広のポケットは膨らませないとした作法もあって、洋服の場合は集金カバンを持つのが常であったし、和服の場合は普通のカバンが常の姿であった。そのポーズよりして、今回の浜松行きは軽い稽古か?の用むきついでに、豊橋の盤を…。それも軽く済みそうな用として映っていた。

 花村と二人きりで列車に乗るは2回。これが初めてであった。車内は比較的すいていた。さっそく盤を買う話の打ち合わせや、連盟内部の下世話ばなし等。そして、一段落すると花村は居眠りを…。私は通路をはさんで隣の席へ移り、しばらく窓外の飛び行く景色を眺めていたが、やはりそのうち、旅の疲れと午後の睡魔にウトウトとしていた。

 私は、花村が死ぬまで愛読していた競輪新聞の世界は、まったく…。それに碁、麻雀の世界にも疎く。反対に青臭い政治論や経済論。さらに絵、小説、音楽、陶磁器などの話になると、まるで”阿呆らしい?”と云った観で趣味、主張の違いが…。すこしの間、まどろんで目を覚ますと、花村はまだ眠っているみたいであった。初夏の富士が、暮れがたい午後に優美で悠久な姿をみせていた。それをぼんやり眺めている間に、花村も目を覚まし、「きみ、コーヒー呑まんかい」。いつもながら目覚めのいい朗らかな顔であった。そうこうしているうちに豊橋へ…。着いたときは、さすがに夕暮れ近くだが、あっという時間に感じられた。駅の外に出ると私達は、すぐタクシーを拾い目的の盤を譲ってくれるという人の家に直行した。その家は下町の住宅街といった横町にあった。

 かの盤は、六寸豊かの手入れが十分に行き届いた年代を感じさせる良い艶でベッコウ色の光沢をなし、しかも、盤蓋には十三世名人関根金次郎筆で「千変万化」の揮毫が認められてあった。電話を受けたときから値段が値段だもの、それ相当な…と思っていたが、目の前にした瞬間、「これなら自分が買うのだった」と思った。

 ところで花村は、所有者の住所氏名も、どんな事情で盤を処分したいのかはいっさい云わなかったし、私もあえて訊く必要が…と思っていた。ただ、ここは豊橋市内。そして、この家の主が”盤を処分”というのみが解っていることであった。が、このさいは盤を譲られればいいだけで、あとは関係なしか…。それはそれで「後腐れなし」の花村流で、すっきりとした取引の世界であった。

「どうだい、きみ」。花村は、私の方をみて訊いた。見た瞬間、自分が欲しいと思った盤だけに身をのりだして、「いいですね」とふたつ返事を返すと、また所有者の方に視線を変え、「では、例の金額で譲られて…」と切りだすと、相手は、「うーん」と唸ったきり、しばらく沈黙のときをやり過ごしていた。盤の所有者は、歳の頃なら花村と々くらいか。

 当時の花村は56、7歳であったが、頭こそトレードマークの僧形をしていたが、全体に艷やかで華やかな身なりと雰囲気があったのに比べ、その人は自宅にいるせいか身なりもすくみ、しかも、改まって正座した肩が縮こまっている姿がなんとなく歳より老けてみさせていた。

 花村は再度、「では…」と促して、相手をギョロリと睨むような眼でみた。相手は視線とは関係ない俯いた姿勢のまま、「私もこの頃は将棋もようやらんし…、しかし、なあ」とぼそっと呟いたっきり、また沈うつな空気が流れていた。しようがなく、私達は冷たくなった茶を吸った。考えてみれば自分の指値であったにしろ、いざ、買い手が現われ、現実のものとなるや、急にい愛惜しい感情となるも人のつねか。まして、長年だいじにし、自慢もしてきた盤であればなおさらであった。

 花村と盤の所有者は古くからの知り合いらしく、私はじっとなりゆきを眺めていた。いつしか日はとっぷりと暮れてしまい、「わざわざ池田君もこうして遠いところを…」と、再三の催促におよぶ花村の表情は、いつもと違って業を煮やした観にあったが、それでも努めて平静を装い促しにあたる図は真剣さを超え、ある種の凄味さえあった。相手は相変わらず、「しかし…、なあ…」を繰り返すのみで埒があかなかった。そして、やがて手洗いなのかどうか?ちょっと席を立った。私も、とうに話がついていると思っていたのに意外なことの運びに苛々していたところがあった。

 否、もしかして席を外したは気をきかせもしたのか?その隙に、「先生…この辺で現金をみせて頼んだ方が?」「おっ、そうだな」。続いて、「予定額よりアシがでてもかまいませんから」の、一言をつけ加えることも忘れなかった。とにかく私としても、盤を見ずに電話一本で「買う」と云い、「宜しく頼んだぞ」と信用されてきている手前、手ぶらで帰るわけにもいかなかった。現金を花村に渡し、それを目の前にしての交渉が開始され、ほどなく「しゃないな…」の声がぽつり。結果は相手の言い値に、5万円ばかり上乗せした金額で折り合いがついていた。盤さえ手に入れれば長居は…。売りたいという値から値切った話でもなく、先方が「これなら」と云いだした値段なのに改めて交渉ごとの微妙さに、タクシーを拾うと疲れた気分が急に襲ってきた。花村は?とみると「しょんない新幹線に間に合わなくなってしまった」と言いながら、いましがたのことを忘れたように煙草を一服。そして、最終の新幹線に乗り遅れ、その原因は、云うまでもなく案外に手間取った盤の所有者。などなどを少しも語らず、いつもと変わらぬ世間話を…で、運転手に町内名を告げ、今夜の宿へと。この屈託のなさと変わり身のはやさ。盤を巡って煮え切らぬ相手との血相を変えての攻防。そういえば、相手の家へ入ってより終始、「盤を約束どおり譲ってくれ」の一点ばりで、余分な会話をいっさいないのが妙に脂っぽく、異様な迫力としていまもって脳裏に…。花村流の商法をかいまみた思いがした。

 宿に着いて、「先生、きょうはどうも…」と、例のマージンが封筒に入ったものを差し出すと、花村は、「私の責任で5万が上乗せになったのだから、それを差し引いて5万でいいよ」と。さらりとした意外な応えが…。「先生、それは約束ですから」「否、きみに約束した額より出た分は、私の責任で当然花村が…」。さらに、「否、どうぞお受け取りください」。又、「私の責任で…」と封筒が往ったり来たり。思うに旅の宿で、師匠と弟子がこんなことをやりあっているのも変な光景であった。が、花村は、私を弟子以前の商売人とみて、自分の”面子が立たぬ”といったところか?約束どおりのマージンは「受け取れぬ」とした態度にあるみたいだった。だからと云って、私もこのまましまいこむわけにはいかなかった。盤の件は、買い主に理由を話せば解ることであったし、じっさいに見れば得心するであろう逸品で、アシが出た分の算段は簡単に話が…で、そう5万円に固執した話でも…の気があった。

 しかし、「それだとお客さんに迷惑が懸かり過ぎる」と花村が云い、「どうだいアシが出た分は二人の折半ということにしようじゃないか?」と、持ちかけると同時に、”いいかげんにしろや”と云いた気に眼を見据えてギョロリと私の顔を…。その眼に顔を立て?というより、もとは花村のマージンを巡っての話だけに、私は突っ張っている理由が立たなかった。

「ええ、まあ」と云うや、すかさず「それプラス、きょうのここの経費は花村が…」と間髪入れず話を落着させ、「おい、ひと風呂浴びてこよう」といつもの屈託をみせない花村流となっていた。汗を流す程度であったが、花村と風呂を浴びるは遠く日暮里の内弟子以来であった。風呂から出て芝居の桟敷みたいなガランとした畳敷きのだった広い食堂とも酒場ともつかぬところで、牛鍋をつつき、ビールを何本か呑んだ。私は酒が好きで、花村は受けつけぬ体質であることは前にも述べたが、お茶だけで座を湧かせ、頭にタオルを乗せ、古くからの知り合いらしい同年代か、それより上か?の女性群に囲まれ結構ゴキゲンそうであった。もっとも浜松出身の花村にとっては、豊橋も自分の家の庭みたいなものであった。が、宿は旅館とはいっても昔の旅籠といった感じで、障子がところどころ破れていたり、建て付けも悪かったであったが、いっこう頓着なしの庶民性、線太さが花村流であった。

 きょう一日、東京駅で会ってより盤を買いに行き、先程まではマージンを巡っての話。そして、今は木賃宿にも似た宿で師匠と泊まっている…。私は名状しがたい感情と同時に、あえて”共栄”なる言葉を好んで揮毫した花村の信条を真にみたような?で、夜が白むのを覚えてようやくウトウトと眠りついていた。

(以下略)

——–

相手から買値を提案されてそれで売るのなら諦めもすぐについたのだろうが、このケースは、売主自らが言い出した売値での取引。

かえって最終盤で、「この金額で本当に良かったのだろうか?もっと高い値段で言っておいても売れていたかもしれない。ああ、あの時にもっと高い値段で言っておけば…」と売主に迷いが生じてしまったのだろう。

——–

昔の旅籠のような旅館での牛鍋という取り合わせが意外で、一度食べてみたいような気持ちになってくる。

年増の芸者さん達も風情を盛り上げている。

 

 


羽生善治棋王(当時)の痛恨の錯覚

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将棋世界1991年6月号、神吉宏充五段(当時)の「対局室25時 in大阪」より。

 4月12日、金曜日。この日は注目の一番に信じられないような出来事があった。南王将-羽生棋王の竜王戦である。今期の竜王戦1組は、最初から波乱が続発、ただならぬ雰囲気がある。特に中原名人、そして南、羽生はすでに敗者組に回っている。表でいくと、この3人はつぶし合いするわけで「あそこで絶対2人イヤな相手が消えるわけですから、私にとっては嬉しい展開」と谷川竜王。

 その生き残りをかけた一局、若くしてサクセスストーリーを歩んできた”東京ハブストーリー”と、5年前から土地を買っていて、先日庭つき一戸建ての家を建てた関西の堅実ナンバーワンの地蔵との対戦は予想どおり矢倉の勝負。

 羽生の玉頭攻め、南の端攻めの展開で、7図は南が▲1四香と走った所。

羽生南1

7図以下の指し手
△6五銀▲1三香成△同玉▲1四歩△2四玉▲3七桂△2五桂▲6五金△3七桂成▲1五銀△2五玉▲4四角(8図)

 羽生は南の王手攻撃に乗って、単騎王様一人でスクラムトライをかける。すごい度胸で、このあたりの強気が、先日棋王位を取った自信のようにも思えるが。

羽生南2

 8図以下は△8七銀▲同金△同歩成▲同玉△4四金▲2六銀△1六玉▲1七銀打△2七玉▲3七飛△1八玉▲3九飛(9図)と進んだ。

羽生南3

 この局面を見ていただきたい。南玉は△7六角と打たれると、どう見ても簡単に詰んでいる。こんな詰みは羽生が絶対見逃すはずはないのだが……棋譜の間違いかとも思える9図以下の指し手をどうぞ。

 △2七桂▲2九銀(10図)まで南王将の勝ち。

羽生南4

 何ということだ!詰んでいる王様を詰まさずに、受けたつもりの△2七桂は▲2九銀で以下△1九玉▲2八銀引の3手詰め。

 こんなばかな終局は考えられない。投了の瞬間の茫然自失の羽生の表情が目に浮かぶ。羽生も驚いた。私も驚いた。誰もが驚いた。いや、一番驚いたのは南だったかもしれない。間違いなく今期の珍局ナンバーワンだろう。

——–

羽生善治名人は、1989年(第2期)に竜王位を獲得して以降、一度だけ竜王戦2組に降級したことがあるのだが、降級が決まった一局がこの対局。

竜王位を奪われた翌期に2組まで一気に行ってしまうことになり、このパターンは昨年度の渡辺明棋王も同じ。

2組になった期に挑戦者となっているのも、羽生棋王(当時)と渡辺棋王の共通点。

棋王という点まで同じだ。

——–

それにしても、詰みを逃して、なおかつ守った手が守りになっていなくてトン死、という、通常のトン死よりも悔いの残る展開。

羽生名人にとっては非常に珍しいことであり、神吉五段(当時)が「こんなばかな終局は考えられない」と驚くのも無理はない。

 

羽生善治棋王(当時)「うーん渋い」

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昨日は羽生善治棋王(当時)の大ポカを取り上げたが、今日はその自戦記。

将棋世界1991年7月号、羽生善治棋王の連載自戦記〔第4期竜王戦 南芳一王将戦〕「盲点」より。

 4月は将棋界の開幕。

 一年の始まりで、全ての棋士が気分を一新して新しいシーズンを迎えます。

 私にとって本局は開幕第2戦。

 1年間を充実して過ごす為にはスタートが肝心です。

 そういう意味では本局は重要です。

 対戦相手は南芳一王将、改めて紹介する必要はないでしょう。大変な強敵です。

 本局は棋王戦が終わってしばらくしての感じですから、私にとっては棋王戦第5局という雰囲気で、ここで勝たなければ意味は無いんだと思い、大阪へ向かいました。

(中略)

相矢倉

 戦型は南先生が最も得意とする相矢倉になりました。

 先手番における相矢倉採用率は恐らく棋士の中ではNo.1と思われます。

 そして、1図はプロの相矢倉の実戦では最近、一番多い形です。

 この形はかなり前からあるのですが、いまだに結論が出ていません。

 それなりに改良、工夫はされているのですが、昔の形に戻りつつあったり、面白いものです。

 私はもし振り駒で後手番になったら絶対1図になると思っていたので、まずは予定通りの進行です。南先生もそのようだったので対局開始からものすごい早指しで1図になりました。

 ちなみにこここまでの消費時間は南先生1分、私は4分。

 しかし、ここから先は突然スローペースになってお互いに持ち時間をほとんど使い切ることになるのです。

羽生南5

1図以下の指し手
▲1六歩△8五歩▲3八飛△7三銀▲5七銀△8四銀▲6五歩△4二角▲6六銀右△7三桂▲4六角△4五歩(2図)

骨格を決める一手

 相矢倉はこのあたりからの一手一手がとても難しい。

 特に後手番は無造作に指すとすぐに作戦負けになりそうです。

 ▲3八飛とするのが最近の流行、柔軟性があってこの後相手の出かたしだいで自分のかたちを決めていくのが特徴です。

 後手の方は6二銀をどのように使うかが、焦点。△5三銀なら受け身、△7三銀なら攻撃的、あるいは6二銀のままにして雀刺しという作戦もあります。

 本局は1図で▲1六歩だったので、積極的に棒銀で行くkおとにしました。

 つまり、6、7、8筋を主戦場にしてしまって▲1六歩を価値のない一手にしてしまおうという狙いです。

 2図の△4五歩もその意思を継承した手ですが、ちょっと突っ張り過ぎだったかもしれません。

 △6二飛ぐらいで無難だったか。

羽生南6

2図以下の指し手
▲同桂△4四銀▲2八角△8六歩▲同歩△6四歩▲同 歩△6二飛▲5五歩(3図)
 

(中略)

羽生南7

3図以下の指し手
△6四角▲6五歩△3一角▲1七角△6五桂▲5四歩△5二歩▲4六歩△1二玉(4図)

苦しまぎれ

 3図で△5五同歩、△6四飛、△6四角の3通りの手が考えられますが、△同歩は▲5三歩で、△6四飛は▲4六歩△6五歩▲5七銀△7五歩▲1七角でいずれも自信がなかったので、本譜を選んだのですが、やはり苦戦です。

 特に△5二歩は辛い手で、よほど△5四金としたいのですが、そうすると一本道で一手負けになりそうです。

 南先生の将棋はそれほど派手な手は出ないのですが、着実にポイントを稼いできて勝利に結びつけるタイプだと私は思うのですが、▲4六歩というのはそれがよく表れています。

 こう指されると私の指し手が難しい。攻撃するとその反動がきつ過ぎるのです。

 △1二玉は苦心の一手と言うよりは苦しまぎれの一手。

 場合によっては△2二角と活用しようということです。

羽生南8

4図以下の指し手
▲1五歩△7五歩▲6八銀△8五歩▲1四歩△同歩▲1三歩△同玉▲2六角△2二玉▲5六金△8六歩▲6五銀△8五銀(5図)

銀の活用

 ▲1五歩は実に落ち着いた一手、とても困りました。

 △7五歩、▲6八銀と実に渋い応酬が続きます。

 △8五歩の局面で夕食休憩、まだ駒の損得はないものの、8四の遊び駒、▲5四歩と△5二歩の利かされ、手番を握られているという悪条件を考えると形勢は絶望的に思えてきました。

 再開後、端を突き捨ててから▲2六角でしたが、単に▲2六角の方が良さそうです。

 もっとも南先生はそこで△2四歩が嫌だったそうですが。うーん渋い。私には思いもつかない手です。

 本譜は△2二玉で一安心。そして、5図の△8五銀で一人前の攻撃形になったので、少しは難しくなったのではと思いました。

羽生南9

5図以下の指し手
▲1二歩△同香▲1三歩△同香▲2五桂△7六銀▲1三桂成△同桂▲1四香△6五銀▲1三香成△同玉▲1四歩(6図)

どこへ

 南先生はいよいよ▲1二歩から攻め合いを目指してきました。

 私の方も端は3一角の為、受けたいのですが、その余裕はないので、目をつぶって△7六銀からの攻め合いです。

 これも手抜きで本譜は攻め合いになりましたが、1回▲同銀もありそう。しかし、善悪は微妙な所です。

 本譜は超難解の終盤戦の始まりです。

 6図で玉をどこへ逃げて良いのか解りません。

 時間は刻々と無くなってきますし、正確に読まなくてはいけない。序盤ならAという手とBという手どちらも一局の将棋ということもありますが、終盤の場合はその選択が勝敗に直結しますから、最善は常に一つしかないという感じです。

羽生南10  

6図以下の指し手
△2四玉▲3七桂△2五桂▲6五金△3七桂成▲1五銀△2五玉▲4四角△8七銀(7図)

きわどい攻防

 6図で△2二玉は▲6五金△同飛▲4四角で負けなので、△同玉か△2四玉なのですが、△同玉は▲1八飛△2五玉▲2八桂でどうも受けにくい。

 よって△2四玉なのですが▲3七桂が当然とはいえ厳しい追撃。△2五桂が盤上この一手のしのぎです。

 他の受けは▲6五金でだいたい必至となります。

 本譜は▲6五金△3七桂成とできるのが△2五桂の効果です。

 ▲1五銀△2五玉の時に▲4四角がうまそうに見えて実は悪手。

 ここは▲3七飛として△6五飛▲4四角△8七銀▲7九玉△7八銀成▲同玉△8七金▲6九玉△7八金打▲5八玉△6八飛成▲4七玉△5八銀▲3八玉△5九銀不成▲2九玉となってきわどいながらも先手勝ちというのが感想戦での結論でした。

羽生南11

 ▲4四角は△6五飛▲3七飛となれば変化図と同じなのですが、△8七銀という手が生じたのです。

 この手でついに逆転です。

羽生南12

7図以下の指し手
▲同金△同歩成▲同玉△4四金▲2六銀△1六玉▲1七銀打△2七玉▲3七飛△1八玉▲3九飛(8図)

やっと

 △8七銀▲同金△同歩成と清算してから△4四金とすれば△6九角以下の詰めろになります。

 単に△4四金だと▲3七飛△8七銀▲同金△同歩成の時に▲同飛と取られてしまいます。

 ▲8七同玉と限定させる為の△8七銀だったのです。

 しかし、その反面銀を早く渡したので、△4四金の時に自玉は危険なのですが、本譜は△1八玉までどうにかしのいでいるようです。

 そして、△6九角を消して▲3九飛。苦しい将棋だったけれどもようやく勝ちになったと思いました。

羽生南13

 8図以下の指し手
△2七桂▲2九銀(投了図)  
 まで、111手で南王将の勝ち。

 魔がさした

 8図で△7六角とすれば簡単に即詰みだったのに……。

 後の事は思い出したくはありません。

 何ともお粗末な一局でした。

——–

羽生善治棋王(当時)は、この対局のほぼ1ヵ月前に、南芳一王将(当時)から棋王位を奪取しており、羽生棋王が「棋王戦第5局という雰囲気」と書いているのもそういった背景があったことから来ている。

——–

羽生棋王にとっては悪夢のような錯覚。

苦しい局面が続いて、直前の逆転を経て、ようやく勝ちを確信した途端の悪手。

将棋は、頭金を打つまでは安心ができない競技なのだということを痛感させられる一局だ。

——–

「後の事は思い出したくはありません」という一戦をあえて自戦記に選んだ羽生棋王。

このような姿勢こそが、強さの根源の一つなのだと思う。

 

 

升田幸三実力制第四代名人の茶目っ気

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将棋世界1991年6月号、大崎善生さんの「編集後記」より。

 昨年の5月のある日、突然、総務のN口君に呼ばれました。手が震えて撮れないから、代わりにお願いしますというのです。升田先生が身分証明書用の写真のためにわざわざ、連盟に出向いてこられたのでした。

「先生、では4、5枚お願いします」「ウム、よろしい」。私も手が震えました。夢中でシャッターを押し続けて「ありがとうございました」と頭を下げると、突然眼光鋭く私をにらみ「6枚撮った!!」そして、「4、5枚と言ったじゃろう!!」

 カシャ、カシャと鳴るシャッター音を数えてらしたのだ。しかし、言葉とは裏腹に瞳はいたずらっ子のように優しく輝いていました。

「4、5枚というからいかん、何枚でもよろしいぞ」

 今となっては忘れられない思い出です。

——–

大胆さと豪放さの奥に細やかな気遣いのあった升田幸三実力制第四代名人。

いかにも升田流の風情だ。

——–

しかし、これを「升田幸三」がやるから最高のエピソードになるわけで、他の人が同じことをやっても、「??」あるいは「何を勘違いしているのだろう」などと思われてしまうだろう。特に、いつも優しそうな人や愛想のいい人がこれをやったら、甚だしく逆効果になること間違いなしだ。

——–

升田幸三実力制第四代名人がそうというわけではないが、昔から思っていることがある。

それは、強面キャラクターあるいは悪役キャラクターが得をする、ということ。

映画などで、「生徒から慕われ、親からの評判も良く、同僚からの信頼も厚い教師」役と「日頃から悪事に手を染めている札付きのヤクザ」役がいたとする。

ある日、教師が電車に乗っていると、乗客の若い男が肩がぶつかったと言ってお年寄りの男性に因縁をつけていた。しかし、教師は急いでいたので、それを横目に電車を降りた。

同じ頃、ヤクザが道を歩いていると、怪我をした子猫が道端で苦しそうにしているのを見かけた。捨て猫なのだろう。ヤクザは子猫を抱え、そばにあった動物病院に入り、受付で、「こいつを治してやってくれ。失敗したらここにダンプカー突っ込ませるからな」と言って1万円札5枚を受付に放り投げ、子猫を置いてすぐに出て行った。

この2つの場面を見た後では、あくまで映画の中での話だが、ほとんどの人はヤクザの方がいい人に感じてしまうのではないだろうか。

普段との落差、それがマイナス方向に働くかプラス方向に働くかで大きく印象が変わってしまう。

映画の中では、教師は電車の中の老人を助けることを期待されているわけで、その期待が裏切られただけで評価は急激にマイナス方向に向かっていく。反対に、ヤクザは株価急上昇。

トータルすれば、教師のほうが高く評価されなければならないことは分かっていても、そうなってしまいがちだし、それが映画の演出でもある。

三浦友和さんが演じるヤクザが、自分が育った孤児院の子供たちにひそかに玩具をプレゼントしているようなパターンがまさにその図式で、これは映画「泥だらけの純情」での事例。

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将棋で90対10で優勢だったのが60対40に差が縮まった時、悲観してそのまま形勢を逆転されることが多い。

反対に10対90で敗勢だったのが40対60に差が縮まると、その勢いで勝てることが多い。

冷静に考えれば40対60よりも60対40の方が状況は良いわけだが、それまでの状態と比較してその変化の落差が心理に及ぼす影響が大きいのだろう。

悪役キャラクターが得をする、という話と共通する部分があるのかもしれない。

 

両対局者が朝食を食べながら指されたタイトル戦

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将棋世界1984年5月号、共同通信の高井慶三さんの第9期棋王戦第4局〔森安秀光八段-米長邦雄棋王〕観戦記「米長3-1で防衛”三冠王”揺るがず」より。

 第1局の京都を皮切りに、広島、新潟を転戦した棋王戦は、約1ヵ月ぶりに舞台を東京へと移した。この間、米長は王将位を初防衛、森安は念願の名人挑戦権を獲得するなど、ともに絶好調を維持。ただ、両者は昨年暮れから大きな対局が込み合っており、今が疲労のピーク。天王山の新潟決戦(3月9日・室長旅館)では200手を超える棋王戦史上最大の死闘を繰り広げ、何やら消耗戦の様相を呈してきた。

 3月21日、将棋会館4階の「特別対局室」。定刻10分前に米長が現われ、床の間を背に座った。開口一番、「朝食はどうされました?」。前日から会館に泊まった両雄だったが、当初、宿泊予定のなかった米長は、記者の不手際から朝食をとり損ねた。少考して「あんパンとジュース」を米長は注文。

 しばらくして現れた森安。あんパンの話を聞いてさっそく便乗。というのも、朝食に出たトーストが分厚すぎて食欲をそそらなかったらしい。「どうして東京のトーストはあんなに厚いんですかねえ。あれ、かえって食べづらいと思うけど…」と納得のいかない様子。両対局者とも五番勝負の始まったときから比べると、幾分やつれ気味で顔色もよくない。

 午前9時、立会人の高柳敏夫八段が「時間になりましたので」と声をかけ、対局開始。森安はノータイムで角道を開け、米長もすぐ飛車先の歩を突いた。予想通り、米長の居飛車-森安の四間飛車の対抗。お互い指し慣れた順とあって、駒組みは快テンポで進んだ。17手目、森安は8分考えて▲5六歩。「中央位取りに来られるのを警戒した」と。

 9時30分、両対局者のもとへ「あんパン」が届く。ご丁寧につぶあん、こしあんの2種類が並んでいる。それをパクつきながら米長、「森安先生はいいことずくめだね」。もちろん名人戦のこと。森安は思い出したように「そうだ、きょうは封じ手の練習をしますか。何せ二日制の将棋はまだ指したことがないですからね」。そのすぐあとで「米長さんのおかげで名人挑戦者になれました」と持ち上げた。まだ午前中とはいえ、タイトル戦の最中に両対局者があんパンを食べながら談笑するシーンなど、そうめったに見られるものではない。これも米長-森安戦ならではの光景である。

(以下略)

——–

あんパンとジュースなので、午前のおやつの時間よりも1時間早いおやつと見ることもできるが、米長邦雄棋王(当時)が例えば「アメリカンブレックファスト、ベーコンとサニーサイドアップで」と言っていればそのような朝食が出てきたわけで、位置付け的には正真正銘の朝食と言えるだろう。

両対局者が揃って朝食を食べながらの対局は非常に珍しいし面白い。

——–

森安秀光八段(当時)の「どうして東京のトーストはあんなに厚いんですかねえ」。

調べてみると、森安八段の感想とは逆に、関東では6枚切りや8枚切りの食パンが好まれるのに対し、関西では4枚切りや5枚切りの厚手の食パンが好まれているという。

東西で食パンの好みも違う?(パン食普及協議会)

30年前はそうではなかったのか、あるいはこの日の森安八段の朝食を用意した店のトーストが異様に厚かっただけなのか、この辺のところはわからない。

——–

つぶあんとこしあんの問題も取り上げられることが多い。

関東ではこしあんが主流で関西ではつぶあんが主流という調査もあれば、その逆の考察をされている方もいる。また、あんぱんは東日本:こしあん、西日本:つぶあんとしながらも汁粉は東日本:つぶあん、西日本:こしあんという調査もあり、要はあんこに関しては地域差があまりないと見て良いのかもしれない。

いくつかの調査を見て一つ言えることは、つぶあん支持派の方が多いということ。

私は仙台市出身で、厚手の食パン派・つぶあん派だ。

 

第28期竜王戦第3局対局場「別格本山 總持院」

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糸谷哲郎竜王に渡辺明棋王が挑戦する竜王戦、第3局は、和歌山県伊都郡高野町の「別格本山 總持院」で行われる。→中継

別格本山 總持院」は、平安時代の久安年間(1145年~1150年)、弘法大師から28代目の山主、行恵総持坊の開基の古刹。

別格本山とは、高野山真言宗総本山(金剛峯寺)、大本山(寳壽院)に準じた待遇を受ける特別な格式をもつ寺院のこと。

ちなみに、厄払いで有名な成田山新勝寺、川崎大師平間寺は、真言宗智山派(総本山:智積院)の大本山。

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2009年の名人戦第4局が金剛峯寺で行われているが、この時の宿泊場所が「別格本山 總持院」だった。

羽生善治名人は「方丈の間」、挑戦者の郷田真隆九段(当時)は「中書院」、立会人の内藤國雄九段は「桜の間」に逗留している。

〔高野山の対局での昼食、おやつ〕

高野山なので精進料理の世界。

将棋棋士の食事とおやつのデータによると、2009年の金剛峯寺での対局の時の昼食、おやつは、両対局者とも、

一日目
昼食:精進料理の弁当(豆ご飯・茗荷・蓮根の寿司・生麩田楽 など)
午後のおやつ:和菓子 抹茶
二日目
昼食:精進料理の二段構えの弁当
午後のおやつ:杏仁豆腐 烏龍茶

〔昼食予想〕

高野山では、2012年に精進カレー(人参、しいたけ、こんにゃく、高野豆腐)が開発されており、たまねぎ、ニンニク、化学調味料は使えないため、普通の野菜カレーともまた違った趣の味わいだという。厚揚げとしめじ、大根が入ったバージョンもあるようだ。

2009年にはなかった精進カレーがメニューに含まれているかどうかが大きな分岐点になりそうだ。

予想は次の通り。

糸谷哲郎竜王
一日目 精進料理の弁当
二日目 精進料理の二段構えの弁当

渡辺明棋王
一日目 精進料理の弁当
二日目 精進料理の二段構えの弁当

 

 

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精進懐石のメニューの一部

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早朝の勤行

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将棋界の、すぐには信じられない話

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将棋世界1984年2月号のコラムより。

物忘れの天才

 振飛車対策に急戦の新機軸をうち出す青野八段。「現代に生きる山田流」はこれからが佳境です。ところで青野八段が棋界でも1、2を争う”物忘れの名人”なのをご存知でしょうか?つい先日も将棋会館の中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったりウロウロキョロキョロ。どうしたんですか?とたずねると、「いやコートをね…」と口をモゴモゴ。

 小1時間ほどしてコートを手に3階の編集室に現れた青野八段。「またですか、センセ」と女性職員にからかわれたご本人。

「いや、これなんかまだいい方だよ。実はこの前テレビの解説をやったんだ。終わってね、次の対局の二上先生がやってきて『さっきの将棋はどんな将棋?』って聞かれたら、これがもうわからない。さっきやったばかりなのにね。いくら考えてもわからない。対局者を思い出せば将棋の内容も思い出すだろうと考えて、思い出したんだ、対局者の顔を。でも、顔だけで将棋の内容はすっかり忘れてる。隣りにいた人に助け舟を出してもらって、ようやく思い出したんだけど…。これには我ながら呆れたね。ハハハハ…」と、かくの如し。

 青野八段が去ったあと、誰からともなく出た「聞きしにまさる×××でげすな」の言葉に、ただうなずくのみ。

 その青野八段、しばらくして表情をこわばらせながらまた編集部に現われ、

「ねえ、ボクのコート知らない?」

——–

青野照市九段といえば、鷺宮定跡を生み出し、棒銀は詰みまでを研究していたというほどの研究家。また将棋連盟の理事を長く務め、現在はNo.2の立場の専務理事。バランス感覚に優れる将棋界の紳士。

その青野照市九段が、これほどの物忘れの名人だったとは…

将棋ペンクラブ大賞の最終選考委員も務めていただいたが、その時にもそのような雰囲気は全くなかった。

自分の身の回りのことに関してだけ物忘れをする、という傾向だったのだろう。あるいは結婚をしてから変わったのか。

「人は見かけによらない」という典型的な事例だ。

——–

次の話も、にわかには信じ難い出来事。

将棋世界1983年12月号、編集後記より。

 先日、一所懸命?仕事をしているとき一人の男が現われました。バックスキンのブーツ、コットンパンツ、トレーナーにブルゾン、そして、ポルシェのサングラスといういでたち。映画の主人公のようにサングラスをはずしたその人は青野八段。一瞬、目を疑うような大変身にびっくり。これは心理学的にはあせりの兆候だそうです。

 誰か青野八段をもらってあげて下さい。

——–

同じ頃、真部一男七段(当時)は坊主頭にしていたという。

風水学的に、千駄ヶ谷の磁場が揺れ動いていた時期だったのだろうか。

——–

将棋世界1983年12月号、田辺忠幸さんの「浪速だより」より。

 10月4日(火)

 大山康晴十五世名人が世話人となって、大阪・堂島の梅田新道ビル地下1階に高級クラブが開設の運びとなり、午後6時からオープニングパーティー。お招きにあずかったのでもちろん出席した。

 こう書けば将棋クラブの話に決まっていると思いきや、それが大間違い。実は美女がはべり、おいしい、おいしい洋酒を飲ませてくれる会員制のクラブなのである。

 屋号は「ロイヤルアルテンス」。アルテンスはどういう意味か知らないし、覚えにくいので拙者は「アデランス」と称することにした。

 といっても、入会金や月々の会費は相当なもので、しがない観戦記者では手合い違いもはなはだしい。二度と足を踏み入れる機会はないだろうと思いつつ、グラスを口へ運んだ。

 超満員の中を、大山世話人はくるくる。拙者にも「関西の将棋記者の中で、今度の将棋の日(11月17日)に表彰しなければいけない人はいませんかねえ」と、日本将棋連盟会長としての”御下問”があった。

——–

大山康晴十五世名人の後援者、あるいは関西将棋会館建設の際に多額の寄付をした企業がオープンした高級クラブなのだろうが、大山十五世名人のストイックさとは対極にあるような店のオープニングパーティーの世話人を大山十五世名人が務めているというところが、非常に新鮮だ。

入会金、月会費があることから、ロイヤルアルテンスは銀座や六本木や北新地にあるような昔ながらのクラブではなく、エスカイヤクラブのようなシステムだったと考えられる。

梅田新道ビルがオフィスビルであることからしても、その可能性は高い。

——–

昔は、銀座ガスホールの地下にクラブがあったり、赤坂東急ホテル(現・赤坂エクセルホテル東急)の地下にナイトクラブがあったりした時代もあり、意外な場所に意外な店があったのが昭和だったと言える。

 

谷川浩司名人(当時)「こういう面白すぎるものを家に置くと大変だ」

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将棋世界1984年2月号、中平邦彦さんの「神戸だより」より。

 さて将棋界はとみると、内藤九段が中原十段に2連勝してあっさり名将位を取っていた。王座戦のお返しをしたわけで、さすがというべきか。

 続いて全日本プロ戦は準々決勝で神戸組の激突だ。内藤と谷川名人がぶつかって名人が勝ちベスト4へ出た。

(中略)

 忙しい日本社会では比較的のんびりペースの将棋界だが、こうしてみると結構足が速い。中でも多忙の内藤九段、わが社の応接間に現われ、新聞用の正月原稿を書きだした。さっと仕上げるところなど記者より早い。昨年は「タイトルを狙う」と公約したので、「内藤さん、今年もやるの?」と聞いたら、ニヤリと笑って「ああいう公約はたまにするからええのでね。今年は書かないよ」と言った。もっとも公約しないだけで、狙っているのは当然のことだろう。

 続いて現れた小阪五段が私の顔を見て「淡路君が怒っとるで」とニヤニヤ笑う。「なんで?」と私。「前の神戸だよりと観戦記に淡路君が買うたパソコンを十数万円と書いたやろ。あれ十数万円やなくて数十万円なんや」と言うではないか。

 ほんまかいなと驚き、早速電話をすると、

「まあいろいろ付属品がついたから60万円ちょっとかな」と事もなげにいう。使い方は実際に見ないと説明しにくいが、要するに見たいなと思う棋譜が自動的に画面に出てくるようプログラムを組むのが目的だ。が、今は指ならしの段階で実用はもっと先の話。まあ、格好の大人のおもちゃで、一日中遊べるのがいいとか。

「それにしてもぜいたくな」というと「いや、ボクは酒もあまりやらへんし、ゴルフもせえへんから」という。言われてみれば確かにそうで、ドンの内藤など全日本プロ戦の終局後、名人らと神戸で痛飲して一晩で40万円も使うのだからパソコンのほうが安い。

 もう少し簡単なパソコンは神吉四段も持っている。大阪の福崎七段や南六段宅にもあって、テレビゲームのように遊んでいるとか。谷川名人が福崎宅でそれを見て「こういう面白すぎるものを家に置くと大変だ」と警戒の言をもたらしたらしい。

(以下略)

——–

対局が終わった後の遅い時刻から40万円を使うのはかなり大変なことだ。

8人いたとしても1人5万円。

ステーキ店(1万円/人)→高級スナック(1.5万円/人)→普通のスナック(0.8万円/人)→バー(0.5万円/人)→居酒屋(0.5万円)のコースだったとしても1人43,000円。

ステーキ店(1万円/人)→クラブ(3万円/人)→普通のスナック(0.8万円/人)なら1人48,000円でどうにかなりそう。

——–

この頃、企業でさえ部署に一台パソコンがあるかないかの時代で、パソコンを個人で持つのは非常に珍しいことだった。

パソコンのワープロ機能はまだまだだったので、ワープロ専用機が活躍していた頃。

この年(1983年)の7月に任天堂がファミコンの販売を開始しているが、画像処理系のCPUにバグがあり、発売当初は売れ行きは好調とは言えなかったという。ファミコンが大ブレイクするのは1985年頃から。

家に置いておくと更に大変なことになる製品だ。

 


将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(11月7日)

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amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。

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升田流変則向かい飛車

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昨日行われた棋王戦挑戦者決定トーナメント、佐藤天彦八段-佐藤康光九段戦で、佐藤康光九段が非常にユニークな変則向かい飛車を採用した。(A図)

佐藤1

角換わりの出だしからの突如の向かい飛車。

この後、持久戦となり、後手は銀冠模様から△8四銀と出て玉頭攻めを展開した。(佐藤康光九段の勝ち)

△8四歩と突いてからの陽動振り飛車は多くの例があるが、△8五歩まで突いてからの振り飛車はなかなか見ることができない。

佐藤康光九段らしい奔放な指し回しだ。

この将棋の出だしを見て思い出したのが、昔の升田幸三九段-塚田正夫九段戦。

将棋世界1972年4月号、升田幸三九段のA級順位戦〔対 塚田正夫九段〕自戦記「三十年来の好敵手」より。

 塚田さんとの初手合わせは、昭和12年だったと憶えている。当時、私は五段、塚田さんは六段だった。

 その頃は東西の交流がほとんどなかったため初手合わせも遅れたわけだが、思えば三分の一世紀も昔のことである。

 それ以来、酒を共にし、盤をはさんできたが、資料室の調べによると、本局が60番目に当たるということだ。

 私の39勝、塚田さん20勝となっているが、最も多く顔を合わせたのは、戦後10年くらいの間ではなかったかと思う。

 近年はA級順位戦で、年に一度顔を合わせるくらいとなったが、それも来期は不能となった。本局のあと塚田さんが中原君に敗れ、A級の座を失うことになったからだ。

 また、私自身もA級順位戦で負け越したら引退する覚悟を決めているので、今後再び塚田さんと盤をはさむ機会に恵まれるかどうかも計りがたい。

▲2六歩△3四歩▲7六歩△8四歩▲6六歩△8五歩▲7七角△6二銀▲7八銀△5四歩▲6七銀△3二銀▲8八飛(1図)

変則振り飛車

 十数年前までは、塚田さんとほぼ互角の対戦成績だったが、その後、塚田さんに乱れが出たため私の勝率が高くなった。

 はっきりいうと将棋連盟が中野から千駄ヶ谷に移ってから、私は殆んど塚田さんに負けていないのではないかと思う。

 もちろん本局も私は必勝を期して盤に向かった。というのはこの時点で私は3勝3敗。個人対局数が8局なので、4勝を挙げておかないと負け越しになるおそれがあったからだ。

 塚田さんの3四歩、8四歩の出だしは、横歩取りを想定した指し口だが、私はふと気が変わり6六歩と角道を止めて、敵の注文をはずしてみた。このあと矢倉に変化する順も私の方にあったが、変わった型の将棋の方がどういうわけか、塚田さんには得という気持ちが無意識のうちにあったようだ。

 私の6七銀から8八飛回りは変則振り飛車で、多くはないが実戦例もある。

升田塚田1

1図以下の指し手
△4四角▲2五歩(途中図)△3三銀▲4八玉△3五歩▲3八銀△3四銀▲4六歩△2五銀▲5八金左△3四銀▲3九玉△3二金(2図)

二つの策

 塚田さんの4四角は私の2六歩を只で喰おうの策。ここで私には二つの策があった。本譜の2五歩と5六銀である。

 5六銀に2六角、4五銀(A図)の進展となるが、この順も歩を取り戻せるし、敵角を攻撃目標に出来るので相当有望。そのうち一度試してみたいと思っている。

升田塚田3

 本譜の2五歩(途中図)は味わるくこの歩を取らせようの策で、その間急戦に持ち込むのが私のネラいだ。

升田塚田2

 ただしここで注意しなければならないのは、うかつに8六歩、同歩、同角などと後手の飛車の素抜きをネラってはならないということだ。

升田塚田4

 B図は先手3八銀で、8六歩、同歩、同角とした局面だが、ここで後手にうまい順がある。8七歩(好手)、同飛、5三角がそれで、ハメようと思った先手が逆にハメられてしまう結果になるからだ。

 塚田さんは予定通り、私の歩を只で喰い3四銀と引いた。その間、私が玉を固めたのも予定の行動だ。

升田塚田5

2図以下の指し手
▲5六銀△2四歩▲4五銀△同銀▲同歩△2二角▲2八玉△7四歩▲5六歩△2五歩▲6七金(3図)

敗因に近い悪手

 私の5六銀はあらかた玉の囲いが整ったので急戦に出ようの策。

 これに対し塚田さんは2四歩と突いたが、私の4五銀のぶっつけを消す3三桂ハネもあった。局後、彼は3三桂だと2一にスキができ、8六歩、同歩、同飛とさばかれるのがいやだった、という感想があったが、形としては3三桂ハネではなかったか。

 もっとも3三桂以下、8六歩、同歩、同飛、8五歩(飛の交換は2一飛打ちがあるので私のほうが有利)、8八飛、2四歩、6五歩(C図)といった形になり、相当むずかしいことはむずかしいが―。

升田塚田6 

 塚田さんとしてはなんとか持久戦にし、2四歩から2五歩~2六歩と伸ばし、歩得を生かしてこなければならない局面だが、それがなかなかむずかしいのだ。

 4五での銀交換から私の2八玉までは読み筋だったが、ここで塚田さんは構想を誤った大悪手を指した。

 7四歩がそれで敗因に近い一手だった。この手では5三銀(D図)が正着で、飛車の横利きを通しておくことは、将来、先手に歩が渡ったとき2三歩、同金、3二銀と打たれるような手を消しているし、5三銀のつぎ4四歩とか、とにかく私の玉頭にネラいをつけるべきだったと思う。

升田塚田7

 塚田さんは「5三銀だと升田君に8六歩以下荒っぽくやって来られそうな気がした」といわれたが、D図以下8六歩は同歩、同角、6四歩、6七金、8七歩で私の方がわるい。

 逆にやって来ようというのが塚田さんの7四歩だったが、この手と私のつぎの5六歩とは、比較にならないくらい価値が違った。

 塚田さんの構想は7四歩以下7五歩だが、私には6七金、6八角(E図)の用意がある。

升田塚田8

 この形となっては、つぎの私の4六角のノゾキがきびしすぎて策のほどこしようがなくなる。

 私に5六歩と突かれ、塚田さんも”しまった”と思われたに違いない。しかし、3五歩と突きこし、2四歩が入っている形で、7筋もというのは慾張りすぎではなかったか。

升田塚田9

3図以下の指し手
△3四銀▲8六歩△同歩▲同角△8五歩▲6八角△3三角▲7七桂△4一玉▲4六角△5五歩(4図)

会心のさばき

 悪手は悪手を呼ぶというが、塚田さんの3四銀打ちは大疑問手で、ここへ銀を手放してもらえば私の玉頭の脅威は消え、安心して戦える形になった。銀を持たれていると、うかつに8六歩とは突けなかったのだ。なお、3四へ銀を打つくらいなら7四歩の手で打ち持久戦をめざすべきだったと思う。

 塚田さんの7四歩、私の5六歩で棋勢は私に好転したが、さらにそれに拍車をかけたのが塚田さんの3四銀打ちといっていいだろう。

 私の8六歩は会心のさばき、塚田さんは8五歩とおさえたが、この手で6四歩なら私は7七桂とさばき、以下7三桂なら8五歩打ちあるいは6五歩(同桂なら6三歩)で十分と見ていた。

 塚田さんの8五歩に、私は手順に6八の好位置に角を引き、7七桂ハネが回ってからはもうどう変化しても負けはないと思った。

升田塚田10

4図以下の指し手
▲同歩△4五銀▲3五角△8六歩▲8四歩△同飛▲8五歩△8二飛▲8六飛△4二角▲8八飛△8七歩(5図)

 私の4六角のノゾキに対し、塚田さんの5五歩はこの一手。7三桂ハネなら7五歩、8四歩、9五銀がある。

 私の5五同歩に塚田さんは4五銀と角に当て、私の3五角までは必然。ここで塚田さんは8六歩と勝負に来られたが、さすがにこのへんは昔とった杵柄と感心した。この手で3四銀引のような順なら6二角成、同金、7一銀、7二飛、6二銀成、同飛、8五飛で私の方がいいが、8筋の歩を伸ばされていると、7一銀のとき8七歩成(F図)と勝負され、飛の取り合いは、塚田さんの方は5筋に歩が立つので存外確りしている。またF図以下4八飛は7七とと暴れられてむずかしい。

升田塚田11

 私の8四歩から8五歩、8六飛は危険を避けたものだが、ここでまた塚田さんは悪手を出した。8七歩の叩きがそれで、8六とたらされる方がいやだった。

升田塚田12

5図以下の指し手
▲4八飛△3四銀▲4六角△2六歩▲5四歩△6四歩▲6五歩△8三飛▲5五角△3三角▲6四角△6六歩▲5七金△5六歩▲同金△6七歩成(6図)

緩手と悪手

 私の4八飛は幸便の転換。8六歩とタラされていても機をみて4八飛と回りたいくらいだったのだから―。

 塚田さんの2六歩はつくろいが効かないと見た勝負手で、私の方にはいろいろな有効手がある。2二歩の叩き、5四歩の突き出し、6五桂ハネ、5六金の活用などだ。2六歩でしつこく4五銀と角に当てる手などでは、角を引かれて後手引きになり、これらの順を防ぎ切れないと考えられたに違いない。

 私の5四歩の突き出しから6五歩はネライ筋だが、つぎの5五角出は緩かった。

 一本2二歩と叩き、同金、5五角が正着で、以下3三角、6四角(G図)となれば、敵の4筋が薄くなっているので、本譜よりさらに有効だったのである。

升田塚田13

 塚田さんは6六歩で反撃のチャンスをつかんだ。私の5七金寄りは悪手で6八金引きが正着。以下8八歩成、8四歩、6三飛、9一角成で必勝。8八へと金を作らせまいとしすぎのがわるかった。結果はさらにいやな位置へと金を作られる羽目となったが、5六同金で5八金引きは、6七歩成、同金、5七歩成、同金、7七角成と桂を取られ、馬を作られてしまうので、こう指すほかはなかったのだ。

升田塚田14

6図以下の指し手
▲9一角成△7七角成▲3六香△4二桂▲9二馬△7三飛▲8一馬△6六と▲8二馬△5六と▲7三馬△同銀▲9一飛△7一金打▲5三桂(7図)

 私の9一角成も緩手で8四歩が本手。同飛なら5三歩成があるし、6三飛なら9一角成で十分だった。

 このため手が遅れ、塚田さんの6六とと引かれる順を与え勝負形になってきた。私の3六香に塚田さんの4二桂は、3五に桂を受ける方が迫力があったのではなかったか。

 それにしても前に2二歩の叩きを逸したのは大きな手で、2二金の形にしておけば、寄せの速度に大差があったのだ。

 しかし、8二馬引きでハッキリ私は手勝ちを読み切った。飛馬交換から9一飛と打ち込み、塚田さんの7一金打ち(この一手)を強要、5三桂とかけたのが7図だが、ここではもう私の勝ちは動かない。

升田塚田15

7図以下の指し手
△3一玉▲6一桂成△8二銀▲5三歩成△9一銀▲4三と△5四角▲4二と△同金▲3四香△3三歩▲2二金△同玉▲4二飛成△3二金▲2三歩(最終図) 107手にて升田の勝ち

 塚田さんの8二銀引きまでは当然。私は読み筋通り5三歩成から4三とと迫った。4三同金でも同銀でも同飛成で必勝。私の3六香がニラミを利かせている。

 塚田さんの5四角は形づくり。私の4二とから3四香の走りに対し、塚田さんは3三歩と受けたが、3二歩なら詰みはなかった。しかし、2三桂、2二玉、4二竜と金を取られて全く楽しみのない将棋となる。

 本譜は詰みで2二金に対し4一玉は5三桂、5二玉、4一銀、6三玉、6四銀、7二玉、4二飛成、8三玉、8四金(H図)まで。

升田塚田16

 最終図以下は2三同玉、1五桂、1四玉、2五銀、同玉、1六銀、3六玉、2五金打ちまで。

 終了は午後3時10分。近年、私も時間を費わなくなったが、塚田さんも早指しだ。やはり年齢と体力に関係があるのだろう。自分のことをタナに上げて申し訳ないが、塚田さんに粘り強さがなくなったのが気にかかる。

——–

▲2五歩は時差を持たせて突いたものだが、2六歩あるいは2五歩を狙わせている間に囲いに入り、急戦を狙う戦略。

変化に出てくる手順も魅力的なものばかり。

必要な部分だけを抜粋しようとして取りかかったのだが、本局は序盤から終盤まで一本の線が引かれているような升田将棋。打ち終わってみると削れる部分がなかった。

リアルタイムで中学生の頃にこの自戦記を読んだ時は、(升田九段にしては地味な振り飛車だな)と思ってあまりワクワクしなかったのだが、今読んでみると、升田流の思想が非常によく理解できる。

——–

湯川博士さんの著書「振り飛車党列伝」より。

 日本は戦争に負けたが、将棋好きはすぐに立ち上がり、順位戦、名人戦が復活した。戦地へ行っていた棋士も徐々に戻ってきた。

 中でも南洋の死地から生還した升田は、尖った頬骨、鋭い眼光、飢えた野獣のような容貌が異様な光を放っていた。

 A級順位戦で当たった兄弟子の大野源一八段は、序盤早くも升田にやられたとぼやく。

 27図、先手が▲7八玉と寄ったのに対し、後手がつい飛車先の歩を伸ばしたところ。

「升田君の気合に一パイ食わされたよ」

升田塚田17

〔図から、▲7七角△5三銀▲6八角△2二飛…〕

 升田はわざと頭の薄い玉を相手の飛車道に寄せ△8五歩を誘い、次に引き角で△2二飛を強要し大野を翻弄したのである。むろん、大野が飛車を振り回すのが好きというのも織り込み済みである。

(以下略)

升田塚田18

——–

これは、升田幸三八段(当時)が、変則向かい飛車を相手に無理やりやらせているケース。

変則向かい飛車、あまりにも奥が深い。

 

加藤一二三八段(当時)インタビュー

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将棋世界1972年4月号、連載対談「一分将棋は苦しくない」より。

ゲストは加藤一二三八段(当時)、聞き手は石垣純二さん(医事評論家)。

石垣「先日はどうも。あなたに二枚落ち銀多伝戦法をご指導していただいたおかげで米長八段に勝ち”石垣もなかなかやるナー”と面目を保ちましたよ」

加藤「それはよかったですね。私は30分ほどの定跡解説だけでしたから、はたして巧くいくかどうか心配でしたが……」

石垣「定跡というものは恐ろしいものですね。30年ほど前に木村名人の『将棋大観』で銀多伝を見ただけでしたから、加藤さんに教わって本当によかった。ありがとうございました」

加藤「定跡を知っていると中盤まで自分の力以上で戦えますものね。あの米長八段との将棋もお見事でしたが、私との二枚落ちも先生がお負けになりましたけど、いい将棋でしたよ」

本誌注 石垣ドクターは、本誌3月号の米長八段との二枚落ち戦に備えて、1月2日、おりから帝国ホテルで催されていた将棋教室に参加され、加藤八段の特訓を受けたというのである。

一分将棋を打診する

石垣「さて、どうもいきなり尋問めいて申し訳ないんですけど、なんとしても棋界の七不思議ですので、あなたの一分将棋のことからお伺い致したいのです。いつか呉清源さんが”序盤ではいくら読んでも読んでも読み切れないもんだ、そういうときは私は勘で打つ”といっていました。これは素人考えでしょうが、将棋の序盤でも同じだろうと思うんです。が、加藤さんの対局姿を見ると、なんとしても読み切ってやろうという決意のごとく感じられるのですが……」

加藤「私はどういうものか、駒と駒がぶつかりあわないと手が早く映らないのです」

石垣「しかし、NHK杯戦でも優勝されているんでしょ」

加藤「ええ、ラジオのとき1回と、テレビになってから1回」

石垣「そうしてみますと、やはり早指しのほうだと思うんですがね。そういう方がどうして中盤にして一分にまで自分を追い込むのか……。ご自分では”苦しくないから一分将棋をやる”といわれているので、それはわかるのですが、それにしても理解できないんですよ私は。今日は突っ込んだところを聞かせてください」

加藤「ハァーそうですかー。私が考えるようになったのは八段になって1、2年ぐらいしてからでしょうか。一時期なら迷うことがあっても、そう話題にならないのでしょうがあまりに長いので……(笑)多くの人にいわれるんだと思うんです。自分としても、いまの姿がいいとは思ってはいません」

石垣「そうすると、一分将棋はトンネルを抜ける一時期の現象ということですか」

加藤「確かに時間に追われてあらた勝ち将棋も敗けたこともあるんですけど、一分でも巧くリズムに乗るとスイスイ調子よく指せるんですね。そういうこともあるから、いつまでもやめられないのかもしれません」(笑)

石垣「しかし、日経王座戦の中原さんとの将棋のように、中盤でボロ勝ちの局面で、もし時間があれば当然勝っていたと思うんですが、一分将棋であるがために、ジリジリ入玉されてしまったのではないですか―。あのとき”時間があったらナー”という悔いが生まれませんでしたか」

加藤「あれは時間がないためにミスしたのではなくて、対局心理といいますか、こうやれば勝ちだという手が閃いていながら、それよりも、もっとこっちの方が安全だと思って指して結局負けてしまった。つまり一分将棋でも気持ちさえしっかりしておれば勝っていたにちがいないということで、私の意志の問題だと反省しています」

石垣「勝負ということを中心に考えますとエネルギーと時間の配分の戦いだと感じるんですけど―。大山名人などは序盤はエネルギーを使わずに終盤に残す努力を意識的にやっておられるようだし、だれもが時間の配分が勝負の一番大きな要素だと思っているときに、あなただけがガンコに自分のペースを替えないで、なにを読んでいるのか序盤でトコトン読んでおられる……。そのときの心境はもらしにくいもんですか」

加藤「私が時間に追われる一つの原因は、自分と相手の考え方が大体同じだと思っている錯覚があるんだと思うんです。つまり自分の頭の中ではお互いの最善の手を読んでいっているわけです。ところが私が読んだ以外の意表な手を指してくることがあり、それが意表の手でありながら、それがけっこう立派な手であることがあるんです。そういうときに判断が誤りやすくなるわけですね」

石垣「そうすると、あなたの読みと一致する人と、意表を衝くタイプの人があるわけですね。その両極端の代表的な棋士はだれですか―」

加藤「いままでのところ、やはり大山名人と升田九段がちがいますね」

石垣「花村さんなんかどうですか。あの方は対談のとき加藤さんが知性派で、自分は直感派だなんていっていましたけど―」

加藤「花村八段も発想が奇抜なところがあるので、特に時間のないときはこわいですね。もっとも私が知性派といわれたのは、よく考えるところを指されてのことでしょうが、その言葉を聞くといやでも時間の配分を工夫して、期待にこたえなければという気になりますね」(笑)

(中略)

石垣「苦しくないと本人がおっしゃるんだから信用しなくてはならないのですが、30秒-40秒-と読まれて苦しくないはずがない(笑)という気がするんですがね。苦しくないというのはどういうことですかね」

加藤「うーん―。ボクの将棋の考え方としては、一応手というものは直感でわかっているんだと、パッと局面を見たとき、こうだというのが映らなくてはダメなんです。相手に指された瞬間にとっさの判断で返しワザが浮かんでいるようでなければ……。時間があれば検討していられるのですけどね」

石垣「読みのウラづけをすることができない直感を信頼して指すというのは、これは専門家としては愉快なことではないはずですね」

加藤「エェー」

石垣「それを毎回するというのはどういうわけですか」(笑)

加藤「ですから、現在は壁にぶつかっている感じで、なんとかしたいと思っているのです。が、さて、具体的にどう改善していくのがよいか。これがボクの課題だと思っています」

石垣「升田九段は米長八段とあなたを高く評価しているようですが、あなたに忠告はありませんか」

加藤「あるんです。いつまでも一分将棋をしているのはおかしい―と升田先生一流の愛情のこもった表現でいわれるわけです」(笑)

石垣「升田先生はハッキリ云いますからねえ」(笑)

加藤「そういう時期は誰にでもあるもんだがいつまでやっているのか、長すぎるといわれるのです」(笑)

石垣「ホレて通うのは男の特長だけど、いつまでもベタベタしているのはおかしいというのと同じですかね(笑)ところが、あなたの勘で、これをふっ切るのはいつごろですか―」

加藤「うーん―そうですね」(しばらく絶句)

石垣「アイ・ドント・ノーですか」

加藤「まあ、なるべく早い時期に切り替えたいと思ってはいますけど」

石垣「それでいてちゃんとA級を保持されているんですから、やっぱりフシギな人ですね。あなたは―」

(中略)

同い歳結婚は理想

石垣「ところで奥様とは高校の同級生ですって」

加藤「ハイ。京都府立木津高校で……」

石垣「これは私ども医者として同い歳結婚が理想だと医学的にいくつかの理由があっていえるもんですからね『結婚するなら同年の相手を探せ!』と年中講演したり、文章に書いていますことを加藤さんが、ちゃんと実行されていますし、また米長さんもそうですよね。あの人も8年かかって同級生をくどいたというんだから辛抱のいい人ですよね(笑)。ご結婚のいきさつは……」

加藤「学校で時々ノートをかりたりしたことがありましたが、それは本筋とは関係のないことのようですね。結婚というのは神秘的なことですから」

石垣「結婚にふみきられるまでどのくらいの交際期間でしたか」

加藤「ほぼ2年ぐらいでした」

石垣「それは早いほうですね。その時分から奥様はカソリックでしたか」

加藤「いや関心はありましたが洗礼はまだ受けていませんでした」

石垣「信仰というものの動機はたいていが近親の不幸とか、自分の仕事の悩みが多いのに、加藤さんのように棋士として順調にこられた人が宗教に興味を持たれたというのはなんですかね」

加藤「信仰をいただく道筋は、人さまざまだろうと思います。身近に接する人の影響も、大きいのではないでしょうか。私の場合は、24歳の頃に、自分は小さい時に将棋を覚えて、いままでかなりの時間を過ごしてきたので、この辺で生涯にわたる宗教を持つべきではないだろうか、と希望したのが動機といえば動機になっています」

石垣「入信して将棋にプラスになりましたか」

加藤「いい仕事をしなければ本物ではないと思いますので、そのように努力していきたいですね」

石垣「夫婦間で宗教のことを話しますか」

加藤「いま私は上智大学の河野神父と時永神父に聖書研究を習っていますが、神父の話を聞くのはいつも深さと迫力を感じるので好きです。また、妻の方は子供がお世話になっている学校で神父や、修道女の話を聞いてくるものですから自然に宗教のことを話しあいますね」

石垣「加藤さんと宗教、私にはフシギなものを感じます。本当に…」

対局と著書と健康と

石垣「この対談に際しましてあなたの本を全部読んでみたのですが、なかでも『棒銀の闘い』は変化までびっしり書いてあって読めば角一枚強くなると思いました。が、指し手に重点がおかれているせいか数学書を読むようで情緒がないな―という感じがしたんですが……」

加藤「私は将棋の本で将棋の面白さがわかったという思い出があるものですから、いまでも本には関心があるんですよ。そこでアマチュアの人が将棋を楽しく指して充実した時間を過ごすには、指し方の具体的な方法がわかっていたほうがよいと考えてできるだけ手について書いたわけなんです」

石垣「確かに指し手については詳しいですね。あのくらい詳しいと奨励会あたりも参考になるんじゃないかな、いや仲間うちでも読む人がいるかもしれませんよ。前号で塚田九段も横歩取りを雑誌に書いている手前、米長八段との実戦にエーイと指して負けちゃったといっていましたが、手のうちを公開しては勝負師としては賢明ではないんじゃないですかね」

加藤「プロは本に書かれているくらいのことは皆知っていますよ(笑)本当の勝負はそんなところでつくものではないと思いますね」

(中略)

石垣「この連載対談をやるようになってから将棋連盟に伺うたびに多くの棋士に会うのですが、どうも顔色の冴えない人が多いのに、加藤さんは健康そのもののような顔をされている。生活でどういう注意をされているんですか」

加藤「特別な健康法はありません。ある人が、私の顔を見て、ピンさんは将棋指しているのが一番楽しいのではないかといっていましたが、そんな顔なんですかね」

石垣「エネルギーを秘めた顔をしていますよ」

加藤「そうですか。なんとなく身体に自信があるので一分将棋がなおらないのかもしれませんね。もうちょっと知性的将棋にしていきましょう」

石垣「一分将棋とともに、これまたフシギな人ですね、加藤さんは……」

——–

加藤一二三九段が32歳の頃の対談。

加藤一二三九段が色紙などに揮毫する「直感精読」のバックボーンがよく理解できる。

この頃は、加藤一二三八段(当時)は大山康晴十五世名人などから「ピンさん」と呼ばれていた。

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今日と来週のNHK将棋フォーカスの特集は「加藤一二三伝説」。

この対談の頃は、まだ盤外の伝説のエピソードの数々は生まれていない。

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話に出てくる上智大学の河野神父は河野純徳神父。

河野神父は上智大学の総務担当理事、上智カトリック・セツルメントなどを務め、聖フランシスコ・ザビエル全書簡を訳している。

戦中、潜水艦の機関長をしていたという経歴を持つ人間味あふれる神父だったという。

追想 河野 純徳(義祐)先生(上智学院財務局募金室公式ホームページ)

時永神父は時永正夫神父。

時永神父は、上智大学外国語学部教授、総務部長、人事部長、上智学院理事補佐など勤めている。

特別調達庁、人事院(第1回国家公務員試験合格)に勤務していたが、肺結核のため休職後、30歳の時に聖イグナチオ教会で受洗したという経歴で、やはり人間味あふれる神父だったと言われている。

ペトロ時永正夫 S.J.

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11月25日に『加藤一二三名局集』が刊行される。

Amazon.co.jp限定と表示されているが、Amazonでしか買えないということではなく、Amazon.co.jpで紙版を購入した場合、

・加藤一二三九段が念願の名人獲得を決めた第40期名人戦七番勝負第8局千日手指し直し局の手書き原稿のPDFファイル

・第1部自戦記編全11局の棋譜ファイル(csa形式)

の2種類のファイルをダウンロードできる特典が付くというもの。

出版元のマイナビ(マイナビBOOKS)で購入した場合には別の特典(数量限定・先着順で加藤一二三九段のサイン入り書籍)が付く。→マイナビBOOKS

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羽生善治三段と中田宏樹三段の奨励会史に残る大熱戦

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将棋世界1985年10月号、銀遊子さん(片山良三さん)の「関東奨励会だより」より。

 中田宏樹三段11勝3敗、羽生善治三段5連勝、という事実上の昇段決定戦と見られた大一番が7月の最終局として行われた。

 これが期待にたがわぬ大熱戦になったのである。

 まず1図をご覧いただきたい。相矢倉から中田がやや指し易いかという局面だったが、羽生が頑張って図では形勢不明である。しかし、対局中はお互いに「自分が点数不足ではないか」と思っていたそうで、持将棋成立にはもう少しの手数を要した。

 この1図のころ、時刻はすでに午後6時すぎ。普通ならみんな帰り支度を始める時間である。

羽生中田宏樹1

 図以下、△3七玉▲9一成銀△5七銀▲同金△同金▲8三玉△5五金▲7五馬△5六馬▲7二玉△4六歩▲8六金△4七歩成▲8三歩成△2八銀▲9三馬△1九銀成▲9五歩までで持将棋。ここまで進めてみると駒数はほとんど同点であったことがわかる。かくして、大一番は水入りのあと指し直しとなったのである。

 規定で指し直し局は先後交替、持ち時間は半分の各45分持ちで行われた。開始時刻は午後7時30分、もう後かたづけもすんでしまっていて、本局のほかにやはり持将棋指し直しとなった郷田-庄司戦だけしか残っていない。

 両者とも小刻みに時間を使って慎重な立ち上がりだが、将棋そのものは乱暴という気がした。

 2図がそれ。羽生の仕掛けがすごい。飛も香と捨てて、攻めの手がかりとして残っているのは4五の桂が1枚だけだから、いくらなんでも無茶苦茶だろう。対局者である中田も、これは案外に早く帰れそうだなと思ったということだ。

 ところがところが、ここからが羽生の一味ちがうところ。”自転車操業”気味であるのは仕方ないが、手が途切れそうで途切れないのには驚いた。以下の全棋譜を掲載するので、これはぜひ盤上に再現して驚きをともにしていただきたい。

羽生中田宏樹2

2図以下の指し手

△5二金▲3三歩△同桂▲5三銀△同金▲同桂成△同玉▲6一角成△1一飛▲7二金△8四飛▲3四歩△2五桂▲6二金△4五歩▲7七銀△3六歩▲6六銀△3七歩成▲5二馬△4四玉▲3三歩成△同銀▲2五馬△3四銀▲2六馬△3五銀▲5六桂△3四玉▲3七銀△2六銀▲同銀△9五桂▲8六歩△同飛▲8八歩△8七歩▲7七銀△8二飛▲3五銀打△2三玉▲2五銀△6二飛▲8七歩△3七角▲3八歩△2八角成▲2四銀左△2二玉▲9六歩△6一角▲4四桂△2五角▲3二桂成△同玉▲1三銀不成△4三玉▲2四銀成△1六角▲9五歩△4四玉▲3七香△3六歩▲同香△3五歩▲5六桂△5三玉▲3四成銀△3二桂▲3五香△5五歩▲4四桂△同桂▲4三金△6三玉▲4四金△7四歩▲2三歩△8八歩▲同銀△5六歩▲4三成銀△8二飛▲5三成銀△7三玉▲5四金△5七歩成▲同金△6五桂▲5六金△5五歩▲6三成銀△8三玉▲6五金△同歩▲6四桂△7一銀▲7七玉△5六歩▲8六歩△8四歩▲8七銀△4三銀▲5三成銀△5四銀▲同成銀△7三金▲8八玉△6四金▲3七銀△5四金▲2八銀△3八角成▲5五歩△5三金▲7七桂△2八馬▲6五桂△6三金▲6六角△5七銀▲8五歩△6六銀成▲同歩△5五馬▲8四歩△同玉▲9六桂△8三玉▲8四歩△7二玉▲8三銀△6二玉▲8二銀不成△6六馬▲8九玉△8八歩▲同金△同馬▲同玉△7七銀▲同玉△8五桂▲8六玉△7七角▲8五玉△9四金  
 までで、中田(宏)三段の勝ち。

 終了は午後10時21分。となりの郷田-庄司戦は1時間以上も前に終わってしまっていて、会館内には対局者と秒読み係と筆者だけだった。奨励会史に残る大熱戦だった。

 中田はこれで12勝3敗。2番連続の昇段のチャンスはもはや逃すまい、と誰もが思ったのだが、北島二段、田畑三段相手に人が変わったかのような拙い将棋を指して四段はおあずけとなった。

 精神的なダメージは大きいだろうが、立ち直って3連勝すれば結果は同じだ。頑張りに期待したい。

 それにつけても羽生は強い。敗局においてもそう感じさせるのだから、この少年はやはり並ではない。

——–

指し直し局を並べてみたい。

羽生中田宏樹2

2図以下の指し手
△5二金▲3三歩△同桂▲5三銀△同金▲同桂成△同玉▲6一角成(3図)

羽生三段(当時)の非常に強引な角成り。とはいえ、次の▲7一馬の王手飛車取りが見えていて受け方が難しい。

デビル羽生1

3図以下の指し手
△1一飛▲7二金△8四飛▲3四歩△2五桂▲6二金△4五歩▲7七銀△3六歩▲6六銀(4図)

根性の△1一飛の受けに対し、強情な▲7二金。

▲6二金で詰めろをかけるが△4五歩で中田玉は安泰。先手は持ち駒がない。

先手は攻撃の手を止めて▲7七銀~▲6六銀と中央に活用。前線部隊は地雷は仕掛けているが弾薬が尽きている。山奥に潜んでいた部隊を援軍に繰り出すようなイメージ。

デビル羽生2

4図以下の指し手
△3七歩成▲5二馬△4四玉▲3三歩成△同銀▲2五馬(5図)

4図の▲6六銀のところ、▲5二馬△4四玉▲3三歩成△同銀▲2五馬としていれば△3七歩成とはされなかったわけで、ここではあえて△3七歩成を誘っていたと見て良いだろう。

その狙いは…

デビル羽生3

5図以下の指し手
△3四銀▲2六馬△3五銀▲5六桂△3四玉▲3七銀△2六銀▲同銀(6図)

5図から△4八とだと▲3六桂△5三玉△5二馬で後手玉はトン死してしまう。△3四銀からの受けは必然。

先手は、馬を犠牲にして、歩と銀を入手しながら4八の銀を2六にまで活用する。

デビル羽生4

6図以下の指し手
△9五桂▲8六歩△同飛▲8八歩△8七歩▲7七銀△8二飛▲3五銀打△2三玉▲2五銀(7図)

△9五桂の攻めに対する▲8六歩からの受けは非常に勉強になる手筋。

しかし、飛車が8二まで下がったので金取り。先手は金は見捨てて▲3五銀打~▲2五銀で新たな追撃体制をとる。

後手からしたら、ザ・シークとタイガー・ジェット・シンがタッグを組んだような、とても鬱陶しい二枚銀。だが、先手に持ち駒がないので、火を吐かないザ・シーク、サーベルを持っていないタイガー・ジェット・シンのような雰囲気とも言える。

デビル羽生5

7図以下の指し手
△6二飛▲8七歩△3七角▲3八歩△2八角成▲2四銀左△2二玉▲9六歩△6一角▲4四桂△2五角▲3二桂成△同玉▲1三銀不成(8図)

二枚銀が後手玉に迫っているものの、持ち駒がない状況では攻めが続かない。

▲8七歩、▲9六歩からは、弾薬が尽きながらも、白兵戦のための武器を敵兵の死体から奪いに行くような壮絶さを感じる。

8図の▲1三銀不成を△同飛ならば▲2四金を用意している。

デビル羽生6

8図以下の指し手
△4三玉▲2四銀成△1六角▲9五歩△4四玉▲3七香△3六歩▲同香△3五歩▲5六桂△5三玉▲3四成銀(9図)

先手の成銀が、ここからボロボロになったターミネーターが執念深く追いかけてくるような動きをする。

9図の▲3四成銀は只に見えるが、△同角と取ると▲4四金が待っている。

デビル羽生7

9図以下の指し手
△3二桂▲3五香△5五歩▲4四桂△同桂▲4三金△6三玉▲4四金△7四歩▲2三歩△8八歩▲同銀△5六歩▲4三成銀△8二飛▲5三成銀△7三玉▲5四金(10図)

二枚銀が成銀と金のコンビに変わり、じわじわと後手玉を追いかける。中田宏樹三段(当時)も懸命の受け。

デビル羽生10

10図以下の指し手
△5七歩成▲同金△6五桂▲5六金△5五歩▲6三成銀△8三玉▲6五金△同歩▲6四桂△7一銀▲7七玉(11図)

△7一銀と受けられ、これ以上攻められないと見て、ここで先手は守備に転換。

相手に攻めさせて持ち駒を増やし、チャンスを待つ。

デビル羽生11

11図以下の指し手
△5六歩▲8六歩△8四歩▲8七銀△4三銀▲5三成銀△5四銀▲同成銀△7三金▲8八玉(12図)

先手は銀冠に入城。よく見てみると、先手はほぼ飛車・角損。

さすがに、先手がかなり苦しそうに見えてきた。

デビル羽生12

12図以下の指し手
△6四金▲3七銀△5四金▲2八銀△3八角成▲5五歩△5三金▲7七桂△2八馬▲6五桂△6三金▲6六角△5七銀(13図)

△6四金に▲同成銀は、△同馬と引かれ先手は攻撃の手掛かりを失ってしまうので▲3七銀。

13図の△5七銀で、後手は先手に残されたわずかな楽しみを潰しに来た。

デビル羽生13

13図以下の指し手
▲8五歩△6六銀成▲同歩△5五馬▲8四歩△同玉▲9六桂△8三玉▲8四歩△7二玉▲8三銀△6二玉▲8二銀不成(14図)

ところが、羽生三段はここからも手を作り、飛車を入手。だが…

デビル羽生14

14図以下の指し手
△6六馬▲8九玉△8八歩▲同金△同馬▲同玉△7七銀▲同玉△8五桂▲8六玉△7七角▲8五玉△9四金(投了図)まで、202手で中田宏樹三段の勝ち

△6六馬へのうまい合駒がなく、先手玉は即詰み。

 

デビル羽生15

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心折れずに諦めず手を作り続けた羽生三段、決定打を与えなかった中田三段、ものすごい精神力だ。

 

「谷川さんをツモろう」

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近代将棋1989年11月号、塚田泰明八段(当時)の連載エッセイ「ライトな気分で」より。

 9月某日。

 私は午前10時30分上野発で、茨城県の筑波へ向かった。

 将棋大会の中での指導対局が私の仕事である。

 現地には12時頃に着き、4時には仕事が終わった。

 上野に戻って来たのは、午後6時。行く前に考えていたよりも、随分と早く東京に戻れた。

「さて、これからどうしよう…」

 こういった場合、「自宅に戻る」手は、常に3位以内に入る、というのが仲間内では定跡となっているが、せっかく時間ができたのに、という気もした。

 で、3本電話をかけた後(この3本では、まるで収穫はなかったが)、

「そうだ、連盟へ行こう。対局もやっているだろうし、文壇将棋大会も行われているらしいし…」

 6時40分、私は連盟に着いた。

 文壇将棋大会は既に終わっていて、対局の方も夕食休憩のない3時間のものが多く、現在進行形は、谷川VS加藤(一)戦のみで、それは夕食休憩に入っていた。

「これは選択を誤ったかな、帰ろうかな」と思っていたら、誰かが、

「3階で島竜王さん達がモノポリーをやってますよ」

と教えてくれた。

 モノポリーは、最近急激に連盟で流行ってきた。島さんがからむものは、何故だか流行るスピードが早い。

 私が3階へ行った頃、ちょうと1ゲーム終わり、みんな納得がいかないようで、「もう1局」という雰囲気になり、「じゃ8時25分までね」と誰かが言って、ゲームが始まった。ちなみにモノポリーは、1ゲーム90分でやることになっている。

 私は少し観戦していたが、お腹がすいてきたので、先崎君(学四段)を誘って夕食を。

 1時間程で連盟へ戻ってきて、谷川-加藤戦を勉強することにした。

 どうも連盟に来ると、仲々帰る事ができない。いつものパターンだけど。

4階で、谷川-加藤戦の進行が映っているTVを見ながら研究しようと行ってみると、モノポリーを終えた面々が居て、やっている対局が1局にもかかわらず、桂の間がごったがえしている。谷川-加藤戦も、随分進行が早い。

 この将棋、加藤優勢で終盤を迎えたが、そこは谷川流の終盤で差を詰め、逆転。

「やあ、流石に谷川先生ですねえ」

とみんな感心していたところ、谷川さんが、3手必至をかければ勝ちなのに、「らしく」詰ましに行ったのがすっぽ抜けで、金を1枚渡したために自陣が詰んでしまい、逆転。加藤勝ち。

 この頃、桂の間の何人かは、「谷川さんをツモろう」という話になり、感想戦が1時間ぐらいかかるから、と、何故だかその時間でモノポリーをやろう、となってしまい、私も参加する事になってしまった。

 6人でやったのだが、何故か私が勝ってしまった。モノポリーは展開のゲームなので、まあ、私もたまには勝つのだが、どうもこのゲームの急所のツボというものがよく分からない。

 谷川さんが桂の間に来たので、連盟を出る事にする。残ったメンバーは、谷川、島、大野(八一雄五段)、櫛田(陽一四段)、小倉(久史四段)、先崎、そして私の7人。

 さあ、どうしましょうか、という事になったのだが、島さんは飲みに行かないし、塚田君は麻雀ができない。で、結局、私の新宿の部屋へ行くことにした。

 この日、谷川、島、大野は対局でみんな負け。他の4人も勝ちまくっているとは言えず、簡単に言えば、暗い7人が集まったわけだ。

 しかし、7人も暗い人々が集まると、その場というのは意外と明るいもので、結構盛り上がっていた。

 お酒の飲みたい人はお酒、話したい人は話し、疲れている人はそこらへんで寝ている、という、協調性のないメンバーなのだが。

 そのうち、最近明るいという、もっぱらのウワサである、中村さんを呼ぼう、という案が出て、私と同じマンションの4階上に住んでいる中村さんを招く事になった。

 初めのTELでは不在だったが、留守録にメッセージを残しておいたら、午前12時半頃、中村さんが登場。みんなから総攻撃を食っていた。

 この日は金曜日。東京の金曜日の深夜は車が拾えない。

 で、拾える時間まで、という感じで麻雀が始まった。できない私の部屋に雀卓があるはずはなく、もちろん中村邸からの持ち込みである。

 将棋連盟の主流は3人麻雀で(知ってます?)、これは4人麻雀に比べて、展開が早く、荒っぽくて、博打性が強いんだそうだ。

 私にはさっぱり理解できず、まあ、私の良い所と言えば、麻雀や競馬等、ギャンブル系をやらない事ぐらいだから、これでいいのかも。午前3時―。車も拾える時間だ。解散、ということになった。みんな、それぞれの場所で、それぞれの朝を迎える。(ちなみに私の場合は、昼でしたが―)

* * *

 この日のような事は、よくある訳ではないが、そんなに珍しい事でもない。ただ、7人というのは少し多めだった。私の部屋は満席でした。

 まあ、こんな事が出来るのも、独身の仲間が多いうちだけだとは思うが。

——–

名人(谷川名人)と竜王(島竜王)が一緒に遊ぶという、よくよく考えてみると、その後の時代では決してなかったであろうこと(時の名人と竜王が一緒に遊ぶこと)が、この時代は実現されていたことがわかる。

——–

それにしても、この良い意味でのユルい感じがたまらなくいい。

——–

塚田泰明八段(当時)が「私の新宿の部屋」と書いているが、当時の誌上で公開されていた住所録では塚田八段は杉並区、中村修七段(当時)は町田市となっているので、新宿のマンションは、塚田八段、中村七段とも研究会用の部屋として利用していたと考えられる。

 

谷川浩司名人(当時)「どうします?」

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昨日の記事から1ヵ月後くらいのこと。

近代将棋1989年12月号、池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 谷川王位の就位式に出席するため上京。宿泊場所の将棋会館に着いたときは夜9時を回っていた。対局室をのぞくと谷川・島戦(王将リーグ)が終わり感想戦が始まっていた。疲れていたので途中まで見て自分の部屋に戻る。眠っていると竜王と名人に起こされた。深夜である。先崎四段もいる。これから中村邸へ行きましょうという。モノポリーでもやるのかなと思っていたら、島さんは「モノポリーはもうやめました。もうすぐ竜王戦も始まりますし」と言う。中村邸に着くと大野五段と小倉四段もいて「わざわざ大阪から出てきたんだから、まあマージャンでも」ということになった。メンバーが多すぎるので名人と竜王は近くの塚田邸へ。「竜王はモノポリーはやめたんですね」と私が言うと「そんな話を信用してはいけませんよ」と大野さん。「島君は1日で気が変わるんだから」。(後日、衛星放送で竜王戦第1局を見ていたら、前夜祭で竜王は羽生六段と一緒にモノポリーを楽しんだ、という話をアナウンサーがしていた。呆れたね) ところでマージャンだが、私の座った場所が悪かった。真正面のテレビが面白ビデオをやっていたため、ついついそちらに目が行って放銃の連続。アホらしくなって半チャン1回で切り上げ、塚田邸へ行く。バーボンを飲みながらバカ話。将棋会館に戻ったときは午前3時を回っていた。守衛さんには叱られなかった。

某月某日

 日比谷の松本楼で王位就位式。和服の谷川王位は「王将戦で前期棋王戦の借りを返したい」とあいさつ。パーティーのあと小倉さんのBMWで鈴木宏彦さんらと一緒に将棋会館へ。控え室で時間をつぶしていると王位がやってきて「どうします?」と聞く。用事がなければ大阪へ一緒に帰りましょうという誘いだが、「まあまあ、そう言わずに」と小倉さんが帰してくれない。結局、またマージャンになった(いったいオレは何しに東京へ来たんだろう)。王位と私はそれでも新幹線の最終便で帰るつもりでいたが、だれかが連チャンして長引いたため、それもパーに。仕方なく王位は定宿の赤プリへ。私は鈴木さんと新宿のリスボンへ行き、ビールを飲みながら朝まで将棋を指した。そして始発の新幹線で大阪へ。疲れた。

(以下略)

——–

池崎さん以外は、登場する棋士が昨日の記事とほとんど同じなのが可笑しい。

「千駄ヶ谷→塚田泰明八段(当時)と中村修七段(当時)の部屋があるマンション」というコースが定跡化されていたということだ。

中村修七段の部屋はゲーム場、塚田泰明八段の部屋は酒場として位置付けられている。

——–

「リスボン」は新宿・歌舞伎町にあった伝説の将棋酒場。

私が将棋に関わりを持ち始めるようになる直前に閉店しているので、一度も行ったことがない。

——–

「どうします?」。

午後6時の「どうします?」は「飲みに行きましょう」

午後9時の「どうします?」は「もう一軒行きましょう」

午前0時の「どうします?」は「電車があるうちに帰りますか、それとも朝まで飲みましょうか」

午前3時の「どうします?」は「もう一軒行きましょう」

午前5時の「どうします?」は「そろそろ帰りましょうか」

と、「どうします?」は時間帯と状況によってニュアンスが刻々と変化する。

しかし、これが、東京に住んでいない人同士の東京での会話となると、「どうします?」は時間帯に関係なく、「そろそろ帰りましょうか」の意味で使われることが多くなる。

なかなか奥が深い言葉だと思う。

 

 

谷川浩司名人(当時)が羽生善治五段(当時)を分析する

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近代将棋1989年12月号、谷川浩司名人(当時)の連載エッセイ「対局のはざまで」より。

 羽生善治五段が竜王戦の挑戦権を獲得した。

 十代のタイトル挑戦はこれが初めて。だが、彼の実力や成績を考えれば、当然、というよりも遅すぎたくらいかもしれない。

 彼は10月1日付で六段に昇段。19・20日から始まる、島朗竜王との七番勝負に臨むわけだが、ここでは、今期の成績から見た羽生六段の強さを探ってみたい。

 データを全て集める事ができなかったのは許して頂きたい。成績は9月末日現在。

(1)29勝5敗 勝率:8割5分3厘(内訳:先手…14勝 後手…15勝5敗)

 

 というわけで、相変わらず勝ちまくっている。私のこれまでの最高勝率は7割8分4厘で、これが羽生六段と同じC1の時なのだが、8割以上というのは常識では考えられない。

 それだけ好不調の波がなく、常に実力を100%発揮している、ということであろう。また、先手番全勝、も見事である。

(2)対戦相手

  • A級 5勝
  • B1 0勝2敗
  • B2 4勝0敗
  • C1 10勝2敗
  • C2 10勝1敗

 実に、A級に対しては全勝である。私も1勝献上しているのだが、内訳は他に、大山十五世、南王将、青野八段(2局)である。

 やはり対C級が多く、約3分の2あるが、これも例えば対C1の10勝の中に、森下五段(2勝)、村山五段(2局)が含まれている事を考えれば、必ずしも相手が楽、とは言い切れない。

 B1に0勝2敗だけが目立つが、流石にこのクラスの棋士には地力がある。

(3)敗局内容

  • 5月11日 淡路八段 棋聖戦 後手 129手 相矢倉 4時間、残り1分
  • 5月27日 森内四段 早指し 後手 123手 横歩取らせ 10分、残りなし
  • 6月19日 有吉九段 王将戦 後手 99手 相矢倉 5時間、残り1分
  • 9月9日 日浦五段 新人王 後手 77手 横歩取らせ 5時間、残り2時間6分
  • 9月29日 日浦五段 王座戦 後手 117手 相掛かり 5時間、残り49分

 敗局は全て後手番である。

 また、横歩を取らせての敗局が2つある。羽生六段が今期、横歩取り系統の将棋を8局も指しているのは興味深い。

 日浦五段が連勝しているが、これで日浦五段の対羽生戦は4勝5敗となった。

 田中寅八段の3連勝と共に、よく勝っている棋士である。ちなみに私は、恥ずかしいけれど1勝4敗―。

(4)作戦範囲

 相矢倉、角換わり、相掛かり、横歩取り、対振り飛車、先後を問わず、作戦のバラエティは広い。

 ヒネリ飛車をあまり指していないのが目立つくらいである。

 8月7局、9月8局と対局過多気味である。色々な戦法を指してみることによって、対局に慣れてしまうことを避け、新しい気持ちを保ち続けているのかもしれない。

(5)平均手数

勝局…104手 敗局…109手

 63年度の平均手数が116手だから、それよりも10手も短い。そして負ける時の方が手数が長く、粘っているわけである。

(6)残り時間平均

勝局…1時間10分 敗局…44分

 これは、TV将棋を除いての平均である。

 勝局の中で、私が見て快勝と思われる15局の平均は1時間19分、辛勝と思われる8局の平均は22分で、まずは理想的であろう。

 敗局の平均が意外に多いが、これは日浦五段戦で2時間以上残しているため。横歩取り4五角戦法だったので時間を使う場所が少なかったようだ。

 淡路八段戦、有吉九段戦のように、負ける時は1分将棋、というのが本来の羽生六段である。ただ、最近少し早指しになっているのは、気になるところ。

(7)まとめ

 というわけで、結論としては、羽生六段の強さばかりが目立ち、弱点を発見することはできなかった。

 だが、タイトル戦には独特の雰囲気がある。羽生六段は、タイトル戦の記録どころか、観戦に行ったこともなさそうなので、その辺りがどうか。

 島竜王も最近は昇り調子のようだし、竜王戦におけるツキもかなり持っているので、今度の七番勝負は見逃せない。

 私もできるだけ対局場に出向いて、二人の戦いぶりを見届けたいと思っている。

 島竜王としては、序盤の1・2局がポイントであろう。

——–

谷川浩司名人(当時)の「対局過多気味である。色々な戦法を指してみることによって、対局に慣れてしまうことを避け、新しい気持ちを保ち続けているのかもしれない」という視点は非常に新鮮で説得力がある。

同じように対局過多を何度も経験している谷川名人だからこその洞察。

——–

企業秘密になるような分析手法は明らかにはしていないのかもしれないが、棋士が対戦相手を分析するときはこのようにする、ということを示してくれていると思う。

——–

「島竜王としては、序盤の1・2局がポイントであろう」と谷川名人は予言しているが、

第1局…島竜王の勝ち 第2局…持将棋 第3局…島竜王の勝ち

だったにもかかわらず、羽生善治六段(当時)が4勝3敗1持将棋で竜王位を獲得している。

番勝負の奥の深さを感じさせられる事例だ。

 


戦慄の名古屋戦法、悪夢の岐阜戦法

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将棋世界2004年11月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第7回 『名古屋』『岐阜』という名前の戦法がある」より。

燃えた「奇襲オタク魂」

 いま私は、東京・永田町の国立国会図書館にいる。最近、ここに通ってはある棋書を閲覧し、せっせと書き写しているのだ。まるで写経である。キーボードに慣れきった右手が痛い。それでも頑張っているのは、『将棋世界』の読者にこの棋書のスゴい中身を伝えたい一心から、というのは半分ウソ。私の体内に宿る奇襲オタク魂がいやでもそうさせるのだ。

 その棋書とは日本経済新聞社から昭和29年より34年にかけて刊行された『将棋新戦法』全3巻。著者は加藤治郎八段(当時)。もちろんいまは絶版だ。

 半生記も前の棋書になぜ私は取り憑かれたのか。話はひと月前にさかのぼる。

 勤務先の企画で升田幸三について調べていた私は、升田の唯一の弟子であり、升田将棋を体系的に研究している唯一の棋士である桐谷広人六段を自宅に訪ねた。

 そこは紙でできたジャングルだった。天井から床までまったく隙間なく、棋戦や戦形ごとに分類されたスクラップブックや見たこともない古棋書が二重三重に並んでいる。それに見とれていると足元の昭和初期の将棋雑誌を踏んづけてしまったりするから油断できない。この部屋の主はどう見てもこれらの資料であり、かろうじて残った空間に座っている中年男性はその番人にしか見えない。

 これが、過去のあらゆる将棋を記憶しているといわれ「コンピュータ桐谷」の異名をとる男のデータベースなのだ。

 たとえば升田幸三が升田新手をみずから解説した、4巻セットのビデオが出てくる(なんと売れ行き不振で絶版になったそうだ)。観ると聞き手役の朝日新聞観戦記者、田村竜騎兵氏が

「升田式石田流は最初は石田式升田流だったんです。私が観戦記にそう書いたのですが、いつの間にか逆さまになった」

 なんてトリビアを披露している。

 続いて桐谷六段が掘り出したのは、茶色の変色した3冊セットの棋書だった。

「将棋好きの父が持っていた本で、私が初めて読んだ定跡書です。升田ファンになったのはこれを読んでからなんです」

 表紙を開くだけで崩壊しそうな、その『将棋新戦法』全3巻のページを恐る恐るめくると、1冊につき60から70もの、当時出現した新手・新戦法が紹介されている。加藤治郎渾身の著作だろう。

 もちろんすべてが純然たる新戦法というわけではなく、「ダンスの歩」などの造語がある著者独特のネーミングで戦法に仕立てているものもある。たとえば対中飛車の▲4六金戦法を大山康晴が用いると金は威嚇に使うだけで動かさない。そこでついた名が「大山流金看板戦法」。うまいもんだ。

 升田の名を冠した戦法はやはり群を抜いて多い。その数を数えながら目次を追っていた私の目は、だが、升田と関係ないところで釘づけになったのである。

 異様な見出しが二つあった。

「花村流名古屋戦法」

「清野流岐阜戦法」

 名古屋?岐阜?なんだこりゃあ!いかな奇襲オタクの私も、そんな名前の戦法は聞いたことがない。反射的に、私は桐谷六段に懇願していた。

「この本、コピーさせてください!」

「研究」が大変だった時代

 桐谷六段に断られてよかった。あれをバラバラにするような危険を冒さずとも、国会図書館で大概の本はコピーできる。

 はたして私の目の前に、桐谷蔵書よりもはるかに状態がいい『将棋新戦法』が運ばれてきた。胸が高鳴る。走るようにコピー受付に持っていく。ところが―。

「これは状態が悪いので、ダメです」

 ええっ。たしかによく見ると、表紙に「複写☓」のラベルが貼ってある。

 がっくりしながら、ともかく桐谷六段宅ではゆっくり見られなかった「名古屋戦法」と「岐阜戦法」のページを開く。おおっ……。ひょえー。

 迷いは消えた。書き写すまでのことだ。

 この際、最初から全部、と思って始めてみると、意外に時間がかかる。2日目に出直したときはスピードアップのため筆ペンで縦書きノートに書く工夫をしたが、こうしていると『解体新書』を筆写する幕末の蘭学医になった気分だ。

 ふと、桐谷六段の家にあった何段もの引き出し―それぞれに棋士名を書いたシールが貼られ、その棋士の棋譜がぎっしり詰め込まれている―を思い出す。

「対局前には連盟で何十枚も棋譜をコピーしたものです。コピーがない時代は手書きでした。やっぱり研究すると勝てるんです。でも、いまじゃこんなもの意味ありませんよ。パソコンさえあれば家でいくらでも見られるんですから」

 驚いている私に、桐谷六段は照れ気味にそういって笑った。かつて将棋界において「研究」とは、まぎれもなく、限られた熱心な棋士だけができる行為だったのだ。「写経」の面倒さを体験して初めて、そのことが実感できた。と同時に、「コンピュータ桐谷」という異名がいまではどこか皮肉な響きを持ってしまっていることに気づく。桐谷六段は言った。

「私の現役生活は、規定でいけばあと2年半かもしれません。引退したら、ここにある資料は全部いらなくなる。でも、捨てるのはちょっとねえ。誰かもらってくれればいいんだけど……」

花村流名古屋戦法

 ではお待ちかね(?)、コピーはまず手に入らない『将棋戦戦法』のなかでもきわめつきの、二大変態戦法をご紹介しよう。まずは「花村流名古屋戦法」から(< >内はこの本からの引用)。

 この戦法がプロ棋戦で初めて出現したのは昭和30年の第4回NHK杯、(先)花村元司八段VS大野源一八段戦だった。

<大野の振り飛車は天下一品である。

 大野「俺の振り飛車には大山でさえヒョロヒョロしているからな」(略)

 だが最近この大野の振り飛車を一度ならず二度までも、新戦法を掲げて苦杯をなめさせた男がいる。これぞ余人にあらず、東海道の鬼といわれた早指しの天才花村八段その人である>

 名古屋戦法はのっけから不穏だ。

▲7六歩△3四歩▲7八金△4四歩▲6八銀△3五歩▲5六歩△3二飛

 いきなり▲7八金とされては誰でも飛車を振りたくなる。そこを狙い撃ちするこの戦法は居飛車党の秘密兵器になりやすいかもしれない。△3二飛以下は、

▲5七銀△4二銀▲6六歩△6二玉▲6五歩△7二玉▲6七金△3六歩▲同歩△同飛▲7五歩△3五飛▲5五歩△3六歩▲4八銀上△4五歩▲3八金△8二玉▲8六歩△7二銀▲6六銀△5二金左(1図)

名古屋1

<一見、飛車を7筋に転じる相振り飛車の気配を示す。ここが大事なところらしい。(略)だが、△3六歩の時はすでに大野の振り飛車は花村の新戦法の術中に陥ってしまっているのだから二度ビックリ>

1図以下の指し手
▲2六歩△5四歩▲2五歩△3三角▲7九角△3四飛▲3五歩△4四飛▲2七金△5五歩▲3六金△8四飛▲7六金△5六歩▲5五歩△4三銀▲8五歩△4四飛▲5八玉△4二角▲6七玉△3三桂▲1六歩△5三角▲9六歩(2図)

名古屋2

<巨大な巣を張る毒グモのごとき戦法である。(略)彼の振り飛車がこんなにヒドイ目にあわされたのは、何百局指したか知らないが、本局が初めてだろう>

 ちょっとうまくいきすぎている気もするが、これだけ意味不明な手を続けられると正しく対応するのは困難だろう。6筋の位を確実に取れるのも魅力的だ。

<花村「これは名古屋戦法と呼ばれ、セミプロ時代盛んに用いたが、プロとなってからは本局が最初である>

 名古屋の真剣師、おそるべし。

清野流岐阜戦法

<対振り飛車戦法にもいろいろあるが、その中でもっとも風変わりなのは清野七段常用の玉飛接近戦法であろう。(略)清野七段が岐阜市に在住することから岐阜戦法の名がある>

 岐阜戦法の実戦例は(先)清野静男七段VS高島一岐代八段戦(共同)。

▲2六歩△3四歩▲7六歩△4四歩▲2五歩△3三角▲3八銀△4二飛▲3六歩△3二銀▲3七桂△6二玉▲4六歩△7二玉▲2九飛△8二玉▲5八金右△5二金左(3図)

 急戦調に見えるのはあくまで最初だけ。ここから岐阜戦法は超持久戦をめざす。

岐阜1

3図以下の指し手
▲4七金△7二銀▲4八玉△4三銀▲5八金△1四歩▲6六歩△1五歩▲6八銀△3二飛▲2七銀△5四歩▲5六歩△2二飛▲6五歩△2四歩▲同歩△同飛▲5七銀△2三飛▲6六銀△4二角▲9六歩△3三桂▲9五歩△5三角▲2六歩(4図)  

岐阜2

 対振り飛車の右玉なら私も大好きだが、「岐阜戦法」は駒組みの順序が幻想的だ。

<日本一といわれる攻めの高島八段もいささかもてあまし気味。(略)これでわかるように、岐阜戦法は相手の攻撃を完封する戦法である。しかし、攻めを封じただけでは負けはないが勝ちもない。勝つためには相手を攻めなければならない>

 それでも岐阜戦法はまだまだ攻めない。以下は▲3八玉~▲4八金左と固めて、5筋で一歩持つ。▲9九飛を含みに9筋から開戦したのは22手後のことだった。

 

 衝撃度では名古屋、変態度では岐阜というところか。読者にも「戦法お国自慢」があればぜひご一報ください。

——–

こんなに振り飛車が酷い目に遭うなんて、石田流と三間飛車が大好きな私にとっては、精神衛生上非常によろしくない読み物だ。

このような恐ろしい戦法があったとは…

——–

名古屋戦法は、一手一手の狙いが見えないため、振り飛車側が気が付いた時には手遅れになってしまっている状態だ。

蕎麦屋に入って卵とじうどんを注文、のんびりと食べているうちに店内の異様な空気が気になり、顔を上げてみると周りの席がその筋の怖い人だらけ、のような展開。

映画で言えば、クエンティン・タランティーノ脚本の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の後半のような雰囲気。

振り飛車側も対策の立てようはあっただろうが、持ち時間の短い将棋でのことなので、名古屋戦法が見事に決まった形だ。

花村元司九段しか指しこなすことのできない戦法なのではないかと思う。

——–

岐阜戦法は、陽動右玉戦法のようなイメージ。

とにかく相手からの手掛かりを全部消してしまっている。

蕎麦屋に入って卵とじうどんを注文したら、出てきたのが冷凍窒素で冷やされたカチカチに凍ったうどん。全く溶ける様子もなく、触れれば大怪我をするような超低温。仕方がないので店を出ようとすると、店主はうどんを全部食べなければ店の外には出さないと言う、ような展開。

岐阜戦法は形は対振り飛車右玉に似ているが、貫かれている戦略が清野静男八段独自のものだと思う。

——–

名古屋戦法破り、岐阜戦法破り、それぞれが発見されているのかもしれないが、どちらにしても、特に名古屋戦法を指す人が現代にほとんどいないということが、私のような振り飛車党にとってはホッとするところである。

 

将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(11月14日)

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稀代のプレイボーイ棋士

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近代将棋1989年12月号、原田泰夫九段の名棋士の思い出「清野静男八段のこと」より。

漫遊天才奇人

 大正11年8月14日、新潟県新発田市の生まれ。昭和11年、故木村義雄十四世名人門。24年三段で順位戦に初参加。49年八段。詰将棋の名手。52年8月24日、現役のまま胃癌で死去。享年55歳。

 棋士は一般の常識人と比較すればちょっと変わっている。仲間から見ても彼は変人だ奇人だと言われる人がいた。原田6級時代の藤川義夫二段(昭和40年没・追贈七段)に奨励会試合で飛車落惜敗。その藤川さんは世の中で一番身体を使わない仕事は何かと考えて棋士になった。特別用がない限りは柱を背に懐手の姿なので、「雑誌で見たとおり身体を使わない職業ということで背中を柱に懐手なのですか」と本人にきいたら鼻の頭にしわを寄せて否定せずに笑っていた。

 清野さんは同年輩中では奇人であった。奇人、変人は根は善人、藤川さんとは反対に活動家であった。損得を超越して東奔西走、初対面でも百年の知己の如くなる才能は抜群であった。

 住居を転々、大名遊びをしたり駅のベンチで一夜を明かしたり驚嘆するばかりであった。共に新潟県出身、清野さんは新発田市に近い出湯の生まれ、毎年白鳥が群れをなして訪れる瓢湖は名所として人気が高い。原田はコシヒカリの本場、良寛和尚ゆかりの分水町の生まれ。

 北蒲原の清野、西蒲原の原田、未来の八段、名人をめざした少年棋士時代が懐かしい。

 性格が違う競争心理の烈しさで彼だけには負けられない闘志が起きた。だが同郷の友情も深く足の軽い彼はよく訪ねて来た。

 10代、20代の清野さんは楽しく面白かった。晩年はいらいら、ぱりぴり、めったに爽やかな笑顔を見せなかった。ひょうひょうとして規格外、清野八段一代記はそのまま話題の劇になる。憎めない好敵手であった。

散財を楽しむ

「わしは勝とうと思いばいつでも勝てるんですよ。ただ大きなポカをやって負けることがあるんです」

 昭和13年1月9日、奨励会入会第1戦で清野6級対原田6級以来、毎月2回4日と19日「四苦八苦」せよの意、随分戦った。

 清野さんは一つ歳上、奨励会員としては二年先輩として原田には負けられない気持が強かった。清野流は独特で序盤は定跡にとらわれない。中盤から寄せ合いをねらう感覚がすばらしい。苦戦の場合の粘りが凄かった。最後の詰むや詰まざるやの場面では奇抜な捨てる妙手順で鮮やかに詰めきられることがあった。右は奨励会時代の印象である。

 清野さんのほかには大期喬也、佐藤豊、平野廣吉さんが4級、5級で当たり、半歳、1年後に加藤博二、五十嵐豊一さんが入会した。

「神田先生(当時八段・辰之助九段)と飛香落、樋口さん(義雄四段)と平手で真剣早指しで2円か3円儲けましたよ」

 昭和12年当時の2、3円は1、2万円かも知れない。先輩に平手で挑戦、木村-神田の名人戦がある神田先生に真剣で挑戦するところが恐れを知らぬ清野さんであった。

 神田先生は豪胆で特に飛香落がお好き、大阪から麹町一番町将棋大成会に到着すると夕食前に「オーイ、清野君一番指そうか」六百坪の屋敷に響く声が慣例のようであった。

「わしの田舎から送金があるとみんなおごらせて、けちな奴は自分の金を出さないんですよ。原田さんとカフェーへ一緒に行ったことはないですが、ずるい人間には注意しなさいよ」

 青春時代カフェー通いしたせいか、ナツメロがうまかった。金に関しては類例のない人であった。自分のお金をどう使おうが自由である。お金を全部使いきらないうちは承知できないのか、彼が訪ねる時は、電車賃、車代にも困るからちょっと貸してくれの場面がほとんどであった。

入営前の壮行会

 東京-大阪、新潟-東京の汽車、電車の中で隣に婦人と一緒になった。初対面で雑談しているうちに同情して手持ち金をその場であげたり、面白そうな女性なので途中下車して温泉で2、3日楽しんでから上京したという。進呈、遊びの金額は想像以上だ。

 いかにも楽しそうな実話物語りだが、そのためにお金がなくなったからなんとかしてくれの頼み、話は面白いが戦前戦中、世の中が苦しい時代、アラブの王様気分で旅に遊ぶ清野流にはどう忠告したらいいものか。

 100万、200万を4、5日の遊びで使いきる、現在なら1000万、2000万を一人旅で4、5日で使い切る。まんざら嘘ではない。清野放談がすべて事実なら世の中には清野さんに助けられた女性たち、棋士仲間をはじめ突然ばったり面談した人たちが特別料理と特別サービスを清野会計で楽しんだようである。

 同郷の好敵手、対抗意識のせいか清野、原田の旅はない。時には忠告するので彼は原田が煙い存在、当方はとても規格外の自由人にはついてゆけなかった。

 太平洋戦争から第二次世界大戦になり米穀配給通帳実施、勤労奉仕法制化など日本は傾きつつある時代、昭和18年暮か19年春か原田が新発田連隊入隊前に生家で壮行会があった。加藤治郎先生、廣津さん、加藤博二さんがわざわざお別れに来て下さった。

 この時、清野さんは前からの約束で必ず出席する「今の時代は珍しいものが喜ばれるから雀焼か焼鳥をみやげに持って行きますよ。泊めてもらいますから…」と楽しみにしていた。国上村、現在の分水町に生家がある。

 亡き両親は四男坊四段の最後の別れの宴、田舎料理に酒、ビールを沢山用意した。皆さんは盃をあげながら清野さんはどうしたのかと心配した。

 来ないのか、あれだけ約束した彼のことだ、ひょっこり現れる予感がした。案のじょう宴たけなわの頃「やあー遅くなったが、やってきましたよ」と約束どおり雀焼をひと山持参したのには驚いた。壮行会のこの夜の感動は忘れられない。

ナツメロを歌う

 戦後は東京、岐阜など転々、思いがけない土地から葉書がきた。原田が昭和24年A級八段になった時、彼はまだ三段であった。棋士以外の世界に進むのではないか、終戦直前直後か古賀政男先生と各地を廻ったという。

 君恋し。人生の並木路。誰か故郷を想わざる。別れのブルースなど甘い声でうまかった。昭和25年頃、三田小山町の加藤先生宅を拝借、15坪に内弟子が4人、生活苦で世の中が大変な時に「やあー」とご機嫌な彼は彼女と一緒にとめてくれという。これには参った。

 清野さんと彼女に四畳半を提供、彼は一ぱい機嫌でダイナ、私の恋人……を歌った。

「わしは勝とうと思いばいつでも勝てるんですよ」と豪語、順位戦に参加して比較的速くB級六段、七段に昇段した。研究なし、出たとこ勝負で相当の成績をとっていた。

 詰将棋創作才能は大正生まれでは塚田先生(故名誉十段)と双璧であった。あなたには借りが多いから手伝います。1週間泊めて下さい、二人で今までにない詰将棋の本を作りましょう-そのとおり実現した「新しい詰将棋百題」は今も生きている。

「わしは今度新潟で暮らすのでお別れの挨拶に来ました。一県に一つわしが全国に将棋会館を造るから、あとの地ならしをうまくやって下さい。一つの会館3000万ぐらいでやります」景気のいい話だが夢物語である。

 雄大な構想は愉快だが、まず自分の生活を健全に、ご健康を祈り乾杯したことを想い出す。今ごろは親友松田茂行九段と天国で語り合っていることだろう。ご冥福を祈る。

(中略)

 人生を夢のように旅を続けた清野さん、花摘む野辺に日は落ちて…ああ誰か故郷を想わざる、彼の甘い歌声がきこえてくる。

——–

清野静男八段(1922年-1977年)は木村義雄十四世名人門下。

私が将棋に熱中し始めた頃、書店の将棋の本のコーナーには、清野七段(当時)執筆の棋書がたくさん並んでいた。

土佐浩司八段の師匠でもある。

今回、あらためてWikipediaを見てみると、清野八段が得意としたユニークな戦法が現代に甦っているという。

  • 端歩突き越しからの端攻め(一間飛車・九間飛車)や単純棒銀→2013年の第62期王将戦七番勝負第1局で佐藤康光王将が採用
  • 角桂香飛を集中して美濃囲いを攻める岐阜戦法→2006年の第37期新人王戦決勝で糸谷哲郎四段が採用
  • 飛車と金を交換する横歩取りの変化→2015年の叡王戦四段予選で星野良生四段が採用

これはすごいことだ。

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汽車の中で隣に座った女性と短時間のうちに仲良くなれるというのも、そしてそこから更に発展するというのも、なかなかできることではない。

そもそも、毎回隣に女性が座るとは限らず、ましてや適齢(自分の年齢から見て守備範囲)な女性が座ることはもっと少なく、清野奨励会員は数少ない機会を逃すことなく、結果を出していたということになるのだろう。

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私が大学2年の11月頃のこと。

上野から仙台へ向かう夕刻の特急列車、窓際の指定席。

出発間際に、若い女性が隣に座ってきた。

ふと見ると、心が動かされるほどの美しい女性。

少し影のある、今で言えば堀北真希さんをもう少しソフトにした感じだったと思う。

その女性は、駅弁とお茶(この時代なのでポリ茶瓶)をテーブルに置いた。

こんな綺麗な人が隣に座るなんて初めてだ…とドキドキしながら窓の外を見ていたのだが、大宮を過ぎても宇都宮を過ぎても、彼女は弁当にもお茶にも手をつけようとしなかった。本を読むようなこともなく、じっと座っているだけ。

よっぽど何か話しかけようかと窓の外を見ながら何度か思ったのだが、ドキドキして何も話しかけることができない。

そうこうしているうちに、その女性は駅弁とお茶を手に持って二本松で降りて行ってしまった。

あー、、降りて行ってしまうんだ、、、でも、どうして駅弁を食べなかったのだろう。

まだ私がタバコを吸い始めるずっと前のことなので、煙が気になって駅弁を食べなかったということではない。人前で食べるのが嫌だったのかもしれない。

この時は、ガンで入院している父の3度目の見舞いに仙台へ向かっている時。その夏に急に調子が悪くなり、入院して調べてもらうと既に末期状態で手術をすることなく12月下旬に父は亡くなる。

意識不明だった父が、落ち込んでいた私のために、短い時間ではあるけれどもそのような美人を隣に座らせてくれたのかな、と今では思っている。

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このように、ほとんど一目惚れのようなケースでも、隣の席の女性に声をかけるのはハードルが高い。

清野八段は将棋の才能とともに、そのような分野もプロ八段の才能を持っていたのだと思う。

 

「将棋をご存知なくても何かを感じない筈はない」

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今日は、将棋日本シリーズ JTプロ公式戦決勝戦、深浦康市九段-三浦弘行九段戦が東京ビッグサイトで行われる。→中継

近代将棋1988年6月号、原田泰夫九段の「元祖三手の読み」より。

 ファン・棋士・報道関係の直結として日本シリーズは将棋界の大きな話題になる。各棋戦・各地の催しはすべて―直結であるが、日本シリーズの現場を眺めると、「日本たばこ産業」が最も地味な渋い日本文化をもり上げる着眼に敬意、ご尽力に感謝する。

 対局地の新聞、テレビ、地元支部、時には大学将棋部の有志が記録係、大盤速報解説の駒の操作にご協力下さる。深謝。

「前日祭」は楽しい。主にデパート、ホテルなど便利、広く明るく数百人入場の会場が選ばれる。主催者、棋士関係、報道関係が待つところに100名から600名集まる都市もある。

 対局者、解説者、聞き手の女流プロの多面指し、大盤解説、著書サイン会、ファンの催し将棋会、目かくし対局、詰将棋、一日店長、チャリティ会…など、その地方が喜ぶ企画がある。入場無料、記念品も用意される。

 日本シリーズはすっかり定着した。対局日の大会場には約700人から1500人以上が集まる。まさに壮観、将棋を知らない女性まで沢山入場される。思考と決断の真剣勝負、深山幽谷の如き命がけの静かな対決、プロの考える顔と姿、持ち時間各10分、秒読みは一手30秒、将棋をご存知なくても何かを感じない筈はない。気分転換、社会勉強にもなる。

 人間社会はなんと嘘、いいかげん、馬鹿ばかしいことが多いことか、人の心を引きしめる清、厳、真…の気魄を感受されるだろう。

 企画当初からアイアンドエスの関係者、本部の中島信吾さんは、表面に出ず黒子役に徹して八方に気を配って下さる。感謝。

(以下略)

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原田流の名調子。これぞ原田節。

「思考と決断の真剣勝負、深山幽谷の如き命がけの静かな対決、プロの考える顔と姿、持ち時間各10分、秒読みは一手30秒、将棋をご存知なくても何かを感じない筈はない。気分転換、社会勉強にもなる」

公開対局の公式戦は朝日杯将棋オープン戦決勝・準決勝と日本シリーズとのみ。たしかに、原田泰夫九段が書かれている通り、映像や棋譜からだけでは感じることのできないプロ棋士の対局のあらゆる空気を誰でも感じることができる絶好の機会だ。

”将棋をご存知なくても何かを感じない筈はない”は非常に説得力のある名言だと思う。

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JT杯が開始されたのはJTが日本専売公社時代の1980年。

タバコの広告の自主規制が行われ始めて以来、JTの広告はテレビなど4媒体からイベントなどのプロモーション分野にシフトしているが、タバコ広告の規制以前(イベントなどのプロモーションにシフトを強める以前)からこのような棋戦が行われていたのだから凄いことだ。

当時の第一広告社(現在のI&S BBDO)をはじめ、JT、日本将棋連盟の関係者の情熱と努力は相当なものだっただろう。

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決勝戦で戦う深浦康市九段と三浦弘行九段。

二人は奨励会時代に仲が良く、深浦三段(当時)が四段昇段できるかどうか結果を待つ間、三浦三段(当時)も一緒に待っていた。

深浦康市四段(当時)「三浦君とは仲がいいので、じゃあ研修室が空いてるからあそこで待とうという感じで」

1993年の「行方尚史新四段誕生祝賀会」で三浦四段、行方四段、深浦四段の3人で写っている写真もある。

「中学生当時の三浦君は、口はへらぬし、ガサゴソ動きまわるしの腕白小僧で、およそ将棋が強くなりそうには見えなかった」

 

将棋会館なんでも鑑定団

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近代将棋1988年12月号、武者野勝巳五段(当時)の「プロ棋界最前線」より。

 書いていて息が詰まってきたので、少し楽しい話をお届けしよう。

 東京の将棋会館、特別対局室にダルマの絵の掛け軸が飾られていたのをご存知だろうか。少し古い近将誌のグラビアをご覧になれば、上座対局者の後方に映っている絵を数枚は発見できるだろう。夏過ぎに掛け軸が変えられて、ああ将棋の対局室になじまなかったんだなあと納得していたら、さにあらず。あれは江戸時代の有名画家・谷文晁による”彩色孔明”の真品で時価千万円の大変な美術品であることが分かったので、倉に蔵まったのである。ダルマだと思っていたおじさんが、尊敬する中国の戦略家・諸葛孔明だと知って二度ビックリ。どうも旧会館落成(1959年)のお祝いに愛棋家から贈られたものらしいのだが、何と地下の倉庫には梅原龍三郎画伯の絵を含め同様の美術品が飾るに飾れず眠っているのだそうだ。あ~あ、こんなこと書くと邪心を招くと、また叱られてしまうのかなあ。

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谷文晁(たに ぶんちょう)は、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」ではお馴染みの名前。

贋作も多いが、本物であれば高い物は数千万円のものもあるという。

しかし、晩年に描かれた小さめの掛け軸は、本物であったが、なんでも鑑定団での評価額は35万円。

谷文晁は多くの作品を残しているので、描かれた時の年齢、作品の大きさで評価額は大きく変動するようだ。

特別対局室にあった作品の評価額が気になるところ。

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梅原龍三郎の作品もかなりの評価額になり、2009年に行われたオークションでは、3点の油絵がそれぞれ1,450万円、1,850万円、6,000万円で落札されたという記録がある。

加藤一二三九段が「開運!なんでも鑑定団」に出演した時の鑑定依頼品は梅原龍三郎のリトグラフ。リトグラフは原画を写真に撮り、形と色ごとに版を作る平版画で、鑑定額は30万円。(将棋界の名人と梅原龍三郎との関係をしのばせるということで、鑑定額が若干上乗せされている)

梅原龍三郎のリトグラフ(鑑定依頼人:加藤一二三さん)

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升田幸三実力制第四代名人も梅原龍三郎と親交が深かった。→大女優が見た升田幸三

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伝説の名著、加藤治郎名誉九段の「将棋は歩から」の装丁は梅原龍三郎が行っている。

将棋は歩から (上巻)

 

 

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